【母の教え】染めQテクノロジィ代表取締役・菱木貞夫「厳しい母でした。いじめ、パワハラの恐ろしい母でしたが、晩年、その母の行動が……」

老朽化した建造物に新素材を塗るだけで、さびを止め、強度も復元させる製品で社会インフラの改修に貢献する染めQテクノロジィ。独自の技術で同社を育て上げた菱木氏は「とにかく厳しい母でした」と振り返り、「調子に乗るな」「みっともない」と子どもの頃の母の叱責は忘れられないと話す。一方、「母は人を見抜く才能があり、人を惹きつける女性でもあった」とも回顧。菱木氏が窮地に陥ったときも人知れず関係者を回り、資金繰りにも協力してくれた。菱木氏は厳しくも優しかった母に感謝の言葉を口にする。

 「調子に乗るな」と怒る母親

 母・としはとにかく厳しい人でした。小学校時代の成績はいつもトップ、スポーツでも走るのはいつも一番。喜んで家に帰ってきて話がしたくても、「男が自慢するのはみっともない」と叱責だけで褒められたことがない。学芸会でわたしが主役の児童演劇が東京都の賞を受けて新聞に取り上げられても同じ反応。

「調子に乗るな」「男なんだから」「みっともない」─。母からは、こんな言葉を年中聞かされていました。

 高校時代、陸上の関東大会で勝ち上がって決勝に進出。決勝は残念な結果でしたが、「決勝まで行ったんだ」という、そんな誇りも家で一言も話すことはできませんでした。

 いや、話そうともしませんでした。母の厳しい言葉を聞きたくなかったからです。いま想い返しても厳しいというか、偏屈な女性でした(笑)。

 そんなゆがんだとも思える母でしたが、生い立ちは相当に恵まれていました。1918年、千葉県八日市場市生まれの母の生家は豪農で、祖父の塙辰之助は祖母・クマの婿養子として迎えられ、山下家に入りました。

 この辰之助が稀にみる人物で、当時、嫁入り家具は大きなマーケットだったので、家具会社を創業。事業の成長に伴い、家具づくりのための原料の材木を木場で調達する際、膨大な量の材木を年契約で購入。インフレ経済を読み、低コストで契約していたようです。

 しかも、辰之助は得た収益を町に寄付したり、困った人への救済や社会貢献に費やしていたのです。母の実家の隣には公立の小学校があったのですが、校舎は祖父のお金で建てられたという噂でした。そんな家庭で育った母は3人姉妹の末娘として経済的には何不自由なく育ちました。

 貧しさとは無縁だった母が父・貞次郎と結婚したわけですが、戦争に出兵していた父が復員し、浅草での生活がまた始まりました。父は塗料・化学製品を販売する菱木商店を創業し、そのビジネスが極めて順調であったことから、母は貧しさとは無縁の生活を送ることができました。

 わたしからすると、末娘の母の金銭感覚は浪費家に近かったと思います。晩年は洋服を着ていましたが、それまでは和服一筋。毎年何枚もの高額な呉服を買っていたようです。父も「隣の呉服屋の在庫より、お母さんの在庫の方がずっと多いな」と言っていました(笑)。

 

 勘の鋭さは天下一品

 普通の母親とは一風変わった母ではありましたが、母が持っている勘の鋭さには目を見張るものがありました。射抜くような勘で人となりを見抜くのです。実際、どうしてそんなことが分かるのかと思うような出来事がありました。

 わたしが小学校2~3年生の頃、菱木商店は繁盛していて、家族や従業員の夕飯は夜の9時頃になることが多々ありました。その日も遅い夕飯で、眠くなり寝入ってしまった。すると、母が突然入ってきて布団をまくり上げ、「お風呂に行ってきなさい!」と叩き起こされました。

 実家には内風呂がなく、銭湯に行かなければならなかったのですが、このときは真冬。冷たい木枯らしが吹く夜11時過ぎ、無理やり叩き起こされて眠い目をこすりながら面倒な銭湯行きを強要され、子供心にも腹が立ちました。「友達は寝ている時間だ。これは遅すぎる夕飯のせいじゃないか」と苛立ちました。

 そんなときに妙案が浮かびました。銭湯に行かず、代わりにどこかでタオルを濡らして適当に時間を過ごしてから家に帰ればいい─。帰宅後、抜かりなく濡らしたタオルをタオル掛けにかけ、布団に潜り込みました。「ざまあみろ」。してやったりの気分で苛立ちも消え失せていました。

 ところが、です。何の前触れもなく、バサッと再び布団がまくり上げられて母の怒声と蹴りを受けました。「こんな子どものときから親の目をごまかすとは何事か!!」「いい加減な人間に育ってしまって!!」。

 烈火の如く怒った表情の母からは、罵声の言葉が次々と浴びせられました。結局、本当に銭湯に行くことになりました。しかし、「なぜ分かったんだろう」。不思議でなりませんでした。

 また、こんなことも思い出されました。1972年、思い立ってテロソンという会社を創業した2年後、わたしが入院していたときに、社内で謀反が起こりました。倒産するかも知れないというほどの危機だったのですが、その首謀者こそ母が指摘していた人物だったのです。

 さらにその6年後にも、会社を挙げて企画したタイヤカラーというプロジェクトで2億円を超える損失を出しました。その苦境を見計らったかのように、会社の上席役員が会社の財産や製品の配合資料など全てを持ち出して逃げてしまったのです。

 しかも、テロソンが競合するライバル企業と癒着し、テロソンの倒産を画策していたのです。その人物も母が警戒して指摘していた人でした。

 このときほど人を見抜く母の目の凄さを感じたことはありません。そんな母でしたが、晩年、わたしを救ってくれたのです。事の次第は、わたしの事業が軌道に乗り、年商も10億円だったのが20億円、40億円と急成長。

 銀行からも融資をするから資産を増やしたらどうだと勧められ、80年代前半から国内外の土地を買いました。国内に32カ所、海外にも数カ所。総資産は300億円に膨れ上がり、年間売上高も200億円と順調でした。

 そんな矢先に起こったのがバブル崩壊です。事業は混乱し、資金は逼迫するなど急激な負の連鎖で海外事業も本社社屋も売却。それでもまだ負債は100億円近く残っていました。文字通り天国から地獄に、でした。

 元社員にお金を借りに回った母

 さらに不幸は続きます。会社が潰れるのではないかという噂が広まり、原料が購入できなくなり、社員はどんどん辞めていく。何かと支えてくれていた父も85歳で亡くなってしまう。更にその半年後、一番の相談相手であり、パートナーだった妻・悠子が急逝したのです。

 しかしながら、そのときの母の言葉、その後の行動は、わたしの想像の及ばぬものでした。

 母は静かに「あなたが一生懸命やった事業よ。あなたらしくやりなさい」。耳を疑いました。励ましを含む言葉など、そんな言葉を聞くとは夢にも思っていなかったからです。そして「4億円近いお金がある。わたしの全預金だから使っておくれ」と言ってくれたのです。

 70代の後半にもなり、残された人生は手元資金だけが支えだったはず。それを頼りにならないバカ息子のために投出してくれたのです。ところが、それでも毎月の借金返済では苦悩が続きます。

 それを知った母は元社員のもとを訪ね、正直に会社の厳しい状況を伝え、息子のためにお金を貸して欲しいと懇願して回っていたのです。

 それまでお金に困ったことがなかった母が初めて他人に頭を下げて、お金を借りに回ったわけです。母に世話になった恩を感じてくれた元社員は、ほとんどの者が貸してくれました。中には数千万円も貸してくれた人もいたほど。今でも信じられません。

 母の人に対する優しさがどれほどのものだったか。想像すらできません。

 10年の年月を費やし、何とか借金返済の目途が立ちました。「これからは自分のためではなく、世のため人のための仕事をしよう」─。

 こう心に決めて再出発したのが今の染めQテクノロジィです。そんな母は92歳の誕生日を病室で迎え、2010年8月23日に安らかに旅立ちました。

 母は弱い者にやさしく、強い者に強く、を地でいく人でした。自分の都合ではなく、相手の立場に立って物事を考える女性でもありました。

 母の後ろ姿からは、こんなことを学んだ気がします。わたしにとって「ビジネスの師匠」は父でしたが、「人生の師匠」は間違いなく母であったと思います。

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