1716年創業、300年の歴史を持つ老舗企業が明治維新後に衰退の一途をたどるなか、一人の後継者が「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げて変革に挑んだ。売上4億円から88億円、店舗数3店舗から64店舗への飛躍的成長を支えたのは、数値目標ではなく、社会的意義を込めたビジョンだった。
業界全体が縮小する逆風のなかで、なぜ同社だけが成長を続けることができたのか。7月11日に開催されたオンラインイベント「TECH+ summit DX day for Executive 2025 Jul. 変革のシナリオ」において、PARADE 代表取締役社長(中川政七商店 前会長)の中川淳氏が、ビジョンを軸にした経営の実践について語った。
老舗企業による変革への挑戦の歴史
中川氏は2002年に家業である中川政七商店へ入社し、2025年2月に退社するまでの23年間、同社の変革を牽引した。現在は「いい会社を増やす」ことを目指すPARADEの代表として活動している。
中川政七商店は1716年に奈良で創業した老舗企業で、江戸時代には「奈良晒(ならざらし)」と呼ばれる高級麻織物を扱う問屋として栄えた。しかし明治維新により武士階級が消失すると、主要顧客を失い事業は縮小。祖父の代には細々と事業を継続する状況となっていた。
転機となったのは1973年、中川氏の父が茶道具業界に本格参入したことだった。奈良晒が茶道との深い関わりを持っていたことから、茶道具の総合卸問屋として事業を拡大。1983年には株式会社化を果たした。
一方で、観光地にあった旧本社を活用して始めた生活雑貨ブランド「遊 中川」は、センスの良さが評価され、東京の有名百貨店などからも注目を集めていた。しかしながら、同氏が入社した当時、生活雑貨事業は深刻な赤字状況にあった。
「売れている商品Aがあり、売れていない商品Bがあるのに、生産管理は『作りやすいから』という理由でBばかりつくっていました。誰が生産数を決めているのかも曖昧で、これでは利益が出るはずもなかったのです」(中川氏)
最初の2~3年は徹底的な業務改善に取り組んだが、同時に売上拡大も必要だった。当時は卸売が売上の9割を占めていたが、他社商品と混在して陳列される状況では価格競争に陥りがちだった。
そこで中川氏は大胆な戦略転換を決断した。「ブランドとしてお客さまに認知してもらうには、卸から直営店にシフトし、お客さまに直接商品を届けるしかない」と考え、父の反対を押し切って小売業への転換を進めた。そして、10店舗規模に達した頃から状況は好転し、売上も利益も順調に伸びるようになったそうだ。
「日本の工芸を元気にする!」ビジョンの誕生
2008年に中川政七商店の代表取締役に就任した中川氏は、業績が順調になるなかで新たな課題に直面した。
「毎月予算を達成するようになると、何のために働くのか、何のために会社は存在するのかと、数字以上のことを考え始めました。世の中の大企業にはミッションやビジョンがあります。当社にとってそれは何だろう、と。この先20年、30年と頑張っていくには、それをつくる必要があります。数字だけでは走り続けられないのです」(中川氏)
父に社是や家訓について尋ねても「そんなものはない。あっても売上も利益も上がらない」と一蹴されたというが、中川氏は数年かけて思考を重ね、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを策定。このビジョンを実現するため、中川政七商店は業界特化型のコンサルティング事業を開始した。
「ビジョンを実現するために最もクリティカルなことは何かを考えました。自社が儲かるだけでは、日本の工芸は元気になりません。同じように苦しんでいる同業の工芸メーカーを、自分たちの経営再生ノウハウで支援することこそが、ビジョン達成に直結すると考えたのです」(中川氏)
最初のクライアントである長崎県波佐見町のマルヒロは、売上が2億円から8000万円に激減し、1億3000万円の借金を抱える危機的状況だったが、新ブランド「HASAMI」の立ち上げにより見事に再生。現在は年商3億円超、営業利益率15%の優良企業に成長している。
この成功事例が業界に大きなインパクトを与え、中川政七商店は、これまで60社を超える企業のコンサルティングによる経営再生を実現してきた。
ビジョンがもたらす3つの変化
中川氏は、ビジョンがもたらす変化について3つのポイントを挙げた。
経営判断が簡単になる
「ビジョンをつくるまでの私の判断基準は『儲かるか、儲からないか』。未来は分からないので、これは非常に難しい判断になります。しかしビジョンができてからは、『その取り組みがビジョンにつながるか、つながらないか』が第一の基準になりました。この場合、理屈で判断できるので、意思決定が非常に簡単になります」(中川氏)
中川政七商店の社内では「ビジョン51、営業利益49」という言葉で、ビジョンを最優先とする経営方針を共有していたという。
競争力の源泉になる
会社の力は従来「競争戦略×組織能力」で決まっていたが、現在はここに「ビジョンが掛け算される」と中川氏は分析する。ビジョンは、企業の存在意義そのものであり、他社には真似できない独自の価値を生み出すのだ。
採用に効く
人材確保が困難な時代において、「人が採れる」ことは会社の競争力そのものだ。ビジョンを掲げ、そこに向かって愚直に取り組む姿勢が外部に伝われば、人は自然と集まってくる。
ビジョンを"絵に描いた餅"で終わらせないための実践ステップ
中川氏は、ビジョンを事業と一致させることの重要性を強調した。そのためには下記のステップが必要だという。これが「ビジョンドリブン経営」の核心部分となる。
Step 1. ビジョンの文言を分解・定義する
中川政七商店では、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンについて、「工芸とは何か?」「元気にするとはどういうことか?」を明確に定義。工芸は「生活に必要なもので、手でつくられているもの」と定義し、文化財保護法のような美術的価値とは異なる実用的な観点を重視。元気にするとは「経済的に自立する」ことと「ものづくりの誇りを取り戻す」こととした。
Step 2. 具体的な事業に落とし込む
定義が明確になれば、それを実現するための事業戦略を立てることができる。前述のコンサルティング事業は、まさに「経済的自立」と「誇りの回復」を支援するために生まれた事業だった。ビジョンと事業が完全に一致していることが重要だ。
「ビジョン達成のために事業があります。『儲かりそうだから』という理由で、ビジョンと無関係な事業を始めては、言行不一致となり社員の信頼を失うことになります」(中川氏)
Step 3. 数字に落とし込む
「非常に重要なのが、ビジョンと日々の数字を結び付けること」だと中川氏は強調する。これが、組織全体を同じ方向に動かし、大きな力を生み出す。
中川政七商店では、全国約330の産地が平均10億円規模になれば合計約3000億円市場となり、小売価格換算で約7500億円。そのなかでシェア10%を目指すという目標を設定し、売上750億円(後に300億円に修正)という具体的な数値目標を掲げた。
23年間の変革の成果
中川氏が在籍した23年間で、中川政七商店は売上4億円から88億円、店舗数3店舗から64店舗へと飛躍的な成長を遂げた。業界全体が30年間で1/7~1/8に縮小するなかでの快進撃だった。
「その最大の理由は、綺麗事でも何でもなく、ビジョンがあったからだと信じています」(中川氏)
現在、同氏は株主でありながら中川政七商店の経営には一切関与しない状況で、老舗企業では珍しい経営の世代交代を実現している。
業界の縮小、人材確保の困難、先行き不透明な経済情勢——多くの企業が直面する課題は、中川政七商店が向き合ってきたものと本質的に変わらない。だとすれば、300年企業を蘇らせたビジョン経営の手法は、自社の未来を変える鍵になるはずだ。