
埼玉県川越市にある県立川越高等学校は、自主性を重んじる校風の中で、生徒がのびのびと学んでいることで知られる。県でも有数の進学校でありながら、生徒を「型」にはめない柔軟性で、各界に多くの人材を輩出している。今回は、明治安田生命保険会長の根岸秋男氏、東京大学卓越教授でノーベル物理学賞受賞者の梶田隆章氏、東京慈恵会医科大学学長の松藤千弥氏が、川越高校で培った精神、思い出について語り合った。
自主性を重んじる校風で人格形成のベースをつくる
─ 高校時代というのは、青春時代の思い出も含め、人格形成にとって非常に大きな時期だと思います。明治安田生命保険会長の根岸秋男さんは、同窓会の会長を務めておられるわけですが、川越高校の校風のよさをどう感じていますか。
根岸 川越高校は自由で、自主性を重んじる学校です。自由であるからには、自分のことは自分で責任を持つという気持ちになります。
何でも好きなことをやらせてくれる雰囲気がありますから、のびのび学校生活を送ることができ、人格形成のベースをつくるには非常にいい高校ではないかと思います。
─ 東京大学卓越教授の梶田隆章さんはどう感じますか。
梶田 まさに根岸君と同じ思いを持ちます。高校の中には校則などで不必要に生徒を縛るところもある中で、本当に自由な学校です。50年前、我々が高校生の時には私服での生活が許されていました。
根岸 学生闘争が盛んな時に先輩方が私服での登校などの権利を勝ち取ったんです。私は入学するまで知りませんでしたが、私服の先輩がいるので驚きました(笑)。
─ 東京慈恵会医科大学学長の松藤千弥さんは、どういう校風だと?
松藤 バンカラでしたね。私服での登校もできましたが、学生服を着ている人の方が多く、襟が高かったり、下駄を履いて登校している人もいましたから、入学した時は私も驚きました。
─ 埼玉県の公立高校は男女別学が多く、近隣に川越女子高校がありますが、交流はありましたか。
根岸 私は自転車通学だったので、交流はありませんでした。
梶田 私もなかったですね。トボトボと、川越女子高校の脇を通って通学していました(笑)。
松藤 私は川越女子高校の文化祭「紫苑祭」に行くのが楽しみでしたね。私達の文化祭「くすのき祭」にも女子生徒が来てくれていました。
根岸 卒業生を送る会である「予餞会」がありますが、私達が1年生の時には荒井由実(松任谷由実)さん、3年生の時には中島みゆきさんがゲストとして出演してくれました。お2人とも、まだ本格的に売れる前でしたが、非常に強烈な印象がありました。これは生徒の発案だったと思います。
根岸秋男・明治安田生命保険会長
─ 自主性がわかるエピソードですね。根岸さんの高校時代の思い出は?
根岸 私は最初、剣道部に入部したのですが、半年くらいで辞めたんです。体を壊したといいますか、小児喘息が遅く出た形でした。それで文化系の郷土部といって、地域の文化を探求する部活で活動しました。先生を手伝って遺跡の発掘を行うといった活動を通して、川越という街を少し理解することができました。
あとは、私の家は養蚕農家だったのですが、川越高校に入って都会人になったという感じがしました。私は東武東上線沿線の坂戸の出身です。中学までは同じように農家の友達が多かったのですが、高校に入ってからは西武線沿線のサラリーマン家庭の友達と出会って、カルチャーショックや、いろいろな刺激を受けました。
─ 坂戸からは自転車で通ったという話でしたね。
根岸 30分ほどかけて通っていました。坂戸駅までも遠かったので、自転車の方が早かったんです。
─ 梶田さんは東松山市の出身ですが、どうやって通いましたか。
梶田 東松山駅まで15分ほど歩いて、東上線で川越市駅、そこからはまた徒歩という経路です。だいたい1時間くらいかけて通っていました。
私の家も農家で、お米や野菜をつくっていた他、牛を飼っていたこともありました。私の高校時代に、農業ではやっていけないということでやめました。
─ 川越高校に進んだ動機は?
梶田 本当に何となく、川越高校という名前に惹かれました(笑)。校風は入学してみるまでわかりませんでしたね。入ってみたら自由で、バンカラで、いい高校だなと感じました。
梶田隆章・東京大学卓越教授(宇宙線研究所)
─ 何か思い出として残っていることはありますか。
梶田 私は高校に入学した時には163センチしかなかったのですが、今は182センチあります。高校に入ってから急激に身長が伸びました。体重も、今は何キロかは言いませんが(笑)、入学時は50キロありませんでしたから、体力勝負の部活は無理だなということで弓道部に入りました。
弓道経験の長い指導者がいたわけではなかったので、高校時代は弓道で強くなるということについては限界があったと思います。むしろ、大学に入ってからの方が真面目に取り組みましたが、高校の弓道部で学んだことは多かった気がしています。
─ 松藤さんが川越高校に進学した動機は何でしたか。
松藤 私は東京で生まれたのですが、父が転勤族で、中学3年生になる時に静岡市から入間市に引っ越してきました。そこの中学校で薦められて、川越高校に行くことにしたという経緯です。
私は西武線で30分くらいかけて通っていましたが、まさに通学電車でいろいろな高校の生徒が利用していました。根岸君が言われたように、川越は東上線から行くのと、西武線から行くのとでは、当時は雰囲気が違いましたね。
東上線の友達は農家や酪農の家が多く、西武線の方は新興住宅地で、サラリーマンや自衛隊の家庭で転勤族が多く、地元の人はあまりいませんでしたね。
─ 高校時代にはバレーボールに打ち込んだそうですね。
松藤 高校に入学してから、練習を見学したら強そうだったので入部しました。バレー部の顧問は日本体育大学出身の萩原秀雄先生という方で、まさに「鬼監督」でした。萩原先生は体育の教師も務めていました。
─ 厳しい練習だったのに続けられた理由は?
松藤 萩原先生の影響は大きかったですね。川越高校バレー部は強く、県で優勝を狙うレベルでしたから、やるしかなかったというところもあります。実際、高校2年生の時には県で優勝して春高バレーに出場しましたし、国体にも出場しています。高校時代はバレーばかりやっていたなという感じですし、バレーをやっていなかったら、今の私はありません。
根岸 松藤君は不思議なんです。本当にバレー漬けだったのに、成績は本当にいつもトップクラスでしたから。
松藤 思い出すのは3年生の秋に国体に出場したのですが、中間試験と重なって、受けることができなかったんです。そこで期末試験で評価してもらうことになったのですが、体調を崩して1科目受けることができませんでした。
そこで先生に相談に行ったところ、その場で「この問題を解きなさい」と何問か渡されて、その場で解いて、採点してもらって、何とか合格ということになりました。どこかの大学の入試問題だったと思います。ありがたかったですね。
─ 先生方が柔軟だったんですね。
根岸 型にはめる感じではなく、のびのびとやらせてくれた感じがしています。それで我々はみんな、高校の時に将来の型を決めるのではなく、どんな人生にも対応できるベースを育んでいたような気がしています。
梶田 それに加えて、我々の頃は、高校3年間は思い切り高校生活を楽しんで、4年目に勉強して大学に行くという考えの人間が多かったですね。
根岸 長い目で見ると、高校時代にベースができたことで、その後の人生にいい影響が出ていると思います。仲間も含めて川越高校の卒業生を見ていると、みんな耐久力もありますし、のびのびと、今も挑戦を続けている人が多いように思います。
川越高校は「伸び代」のある人たちを育ててくれる高校だと思います。みんな高校がスタートで、様々な伸び代を持って、社会に巣立っていっているような気がするんです。
─ 印象に残る先生はいますか。
松藤 国語の松本成二先生は非常に変わっていて、全てのことが頭に入っている感じで、黒板に向かって何か書きながら喋って、生徒に向かって早口で喋ってという感じで、人に話している感じではなかったですね(笑)。
また、化学の内田一正先生(通称・ろくさん)は定年後にも教壇に立たれていた方で、水泳部の顧問でした。後に映画『ウォーターボーイズ』で川越高校の男子シンクロナイズドスイミングが有名になりますが、その1つの理由が水深4~5メートルと非常に深いプールがあったことです。内田先生が泳ぐと御老体なので、だんだん沈んでいく姿が印象的でした(笑)。
「小江戸川越」のブランドを築く
─ ところで川越は、埼玉県の中でも多くの観光客が訪れるエリアになっていますね。関係者の努力もあったのだと思いますが。
根岸 ええ。街興しとしては非常に貴重な成功事例だと思います「小江戸川越」というブランドを築いた地元の皆さんはすごいと思いますね。地元の商工会議所の皆さんが立ち上がったわけですが、我々の同級生もそこに関与しています。
最近、同窓会でも話してみると、地元に根付いて頑張っている同級生、先輩、後輩が多いんです。川越高校の伝統を継承して活動してくれている感じがしています。
─ 明治安田生命は、Jリーグのタイトルパートナーを務めるなど、全国的にスポーツを支援していますが、こうした活動にもつながっている?
根岸 考えてみると、私がなぜ、これほどまでに地域にこだわって仕事をしているのかというと、川越高校の郷土部での活動がつながっているのかもしれません。地域への関心は自然と持っていたような気がします。
川越の方々の努力を見ていると、地域の中で経済、医療、文化、スポーツをいかにコンパクトに括って、活性化させるかが、生き残りのための道なのではないかと思います。
─ 根岸さんは大学卒業後に明治安田生命に入社するわけですが、当時理工系の学生は少なかったですよね。
根岸 そうですね。大学では数学を学んだのですが、社会人になって数学を生かすことができる仕事はないかと探したら、生命保険会社に「アクチュアリー」(保険数理人)という専門職があることを知り、入社したという経緯です。
アクチュアリーの仕事は13年間やりましたが、その頃から会社をよくするためには他の経験もする必要があると、志望して営業の現場に行きました。
その時に、机上の論理ではない「お客さま本位」を実地で学ぶことができたと感じています。営業職員の活動の背中を押すのが私の仕事でしたが、素晴らしい営業職員に教えられました。
その後、本社に戻ってからもいろいろな仕事をしましたが、営業職員チャネルが当社の財産だと確信したことから、様々な改革を進めてきました。
─ AIの時代に入ってきましたが、「人」との関係をどう考えますか。
根岸 生命保険業界は、やはり「人」が中心でデジタルが補完するという関係で、デジタルが人の上に来ることはないと思っています。主役はあくまで「人」で、そこにデジタルが融合するという形です。
─ 梶田さんにはノーベル物理学賞の話も少し触れたいと思います。高校時代に物理学への関心が高まったんですか。
梶田 いえ。高校生は先生の影響を受けると思いますが、物理の先生の影響はあまり受けませんでしたし、化学の先生はさらに自分には合わなかったですね(笑)。ただ、当時から物理には関心はありました。数学の成績はそれほどでもありませんでしたし、古文、漢文はひどいものでした。
─ 埼玉大学理学部での勉強が大きかったと。
梶田 ええ。教える深さが違うと言いますか、高校で教えてもらった物理とは全く違う世界があるんだと感じましたね。本質的なことを考えさせるという感じでした。
─ 東京大学大学院での天文学者の小柴昌俊さんとの出会いは有名ですが、やはり人とのつながりは研究する上で大事だと感じますか。
梶田 大事だと思います。小柴先生という方を知らないまま、研究室に入ったのですが、それが非常によかったということです。少しずつ、小柴先生からいろいろなことを学んでいったのだと思います。小柴先生は学生に「ちゃんと将来の研究の卵を持たなければ駄目だぞ」とおっしゃっていたのが印象的です。
─ 観測装置「カミオカンデ」での観測は深い地中で行うわけですが、毎日同じ作業で腐ることはなかったんですか。
梶田 たぶん、自分に合っていたのでしょうね。何も気にしませんでしたね。好きだから続けられたということだと思います。自分に合った研究に、たまたま出会えたことで今の自分があります。出会いは本当に大切です。
─ 松藤さんは医学の道に進んだわけですが、いつ頃から志しましたか。
松藤 物心ついた時からです。いつ、どうしてなりたいと思ったのかは思い出せませんが、医者以外になろうと思ったことがないんです。親も医者ではなかったのですが。
松藤千弥・東京慈恵会医科大学学長
─ 東京慈恵会医科大学に進んだ理由は?
松藤 遠い親戚に慈恵の人がいて、薦められたというのが大きかったですが正解でした。
創立者の高木兼寛先生は「病気を診ずして病人を診よ」という言葉が有名ですが、私が学生の時には、その言葉はそこまで使われていなかったですね。ただ、今の日本の医学部は、どこも同じような考え方で医学教育をしています。
慈恵医大は、ドイツ医学を中心に発展した日本の近代医学の中で、イギリス医学が基になった数少ない大学ですが、これは高木先生が「脚気」を何とかしなければいけないと考えて、医学を学びにイギリスに留学したことがきっかけです。
日清・日露戦争では戦死者よりも脚気で亡くなる人が多かったのです。高木先生は海軍軍医総監を務めていましたが、研究の甲斐あって、海軍では脚気にかかる人がほぼいなくなったという歴史があります。
私自身、入学当初は臨床医になろうと思っていましたが、学んでみると栄養学が面白く、研究者の道に進みました。
今の若者に向けたメッセージ
─ 今の若い世代へのメッセージを聞かせて下さい。
根岸 のびのび自由に取り組んで欲しいと思いますね。また、社内に対しては「身の丈に合った背伸びをしよう」と言っています。背伸びをして、何かを達成したら見える景色が違ってきます。そこから、もう1回背伸びをする。階段を一歩一歩上るように成長して欲しいと思います。
梶田 私たちは川越高校で、自由に過ごして、ゆったりと自由に将来のことを考えてもいいということを学んだような気がしています。ですから、若い世代の皆さんには、もっと自由にやって欲しいなということはメッセージとして伝えたいと思います。
松藤 医学生を志す人たちには、医学は自分よりもまず、人のことを考えることが一番大切だということを伝えています。バレー部の後輩たちには、将来絶対に役に立つから頑張りましょうと言っていますね。
─ 最後に、埼玉、栃木、群馬の高校は男女別学が多いわけですが、一部で共学にすべきだという意見が出ています。これについてどう考えますか。
根岸 今、それぞれうまくいっている学校同士を一緒にする必要はないと思います。男子校を卒業したからといって、男女共同参画社会を否定している人は誰もいません。むしろ、積極的にそういう社会づくりに貢献したいという人ばかりです。
梶田 私も、うまくいっているものを変える必要はないという考えです。少なくとも、我々川越高校の卒業生は、男子校で悪かったとは思っていません。
松藤 私も2人と同意見です。そもそも今、日本の公立高校で男女別学は少ないわけですから、多様性を尊重するという意味では別学もいいのだと思います。
根岸 OBだけでなく、現役生、これから受験する人たちとそのご父兄を対象に調査しましたが、皆さんが私たちの考え方に賛成してくれています。別学も選択肢のひとつとして残すべきではないかと思います。
─ 素晴らしいお話をありがとうございました。


