
創業は1966年(昭和41年)洋菓子などの経営から出発し、現在の化粧品会社「銀座トマト」を手掛け60年が流れた。
この間いろいろなことに遭遇し苦境を体験。そんな時、詩人・相田みつを氏と知り合い、著書『にんげんだもの』の精神に影響を受ける。経営者同士が人と人のつながりを増やし互いに啓発しあう交流会「VAV倶楽部」を運営。自らの人生を総括して「お天道様が見ている」という言葉を大事にする近藤氏である。
自然と広がっていった人の輪
─ 近藤さんはこれまでお菓子屋の事業のあと、交流会を企画されて経済界、文化芸術界のリーダーたちをつなぐ役割をやってこられてますね。いつお会いしても、人と接するときは常に笑顔でおられる印象です。
近藤 わたしはこれまで本当に良い方々に恵まれてきましてね。たまたまそういう方々と食事をするようになってから、自然と交友が広まっていって、意図せず交流会の規模がどんどん大きくなっていったんです。
常に笑顔でいるというのは、親の影響かもしれません。「いつでもどこでもすぐできる、笑顔にまさる化粧なし」と言って両親はいつも笑顔でした。母親は周りを凄くあたたかくする愛情深い人で、父親もニコニコとただ見守って認めてくれる、そういう人でしたね。
わたしは6人姉弟で男一人の長男でしたので、菓子屋の跡取りとして育てられ、反抗もしてきました。
親戚のおじさんが、菓子屋を継ぐのに、大学なんか行かなくてもいいと言うのです。わたしも売り言葉に買い言葉で、それなら絶対に大学なんか行かないよと、愛知県立一宮高校を卒業して社会人になりました。
─ 実際お菓子屋を継ごうと思ったのは何歳のときですか。
近藤 父はわたしが16歳のときに他界したので、嫌々その時に継ぎました。当時経営者として悩むこともありましたが、ワコール創業者の塚本幸一さんにご縁がありいろいろと教えていただきお世話になりました。塚本さんの周りにいた方々の中では当時最年少でしたので、非常に可愛がっていただきました。
わたしたちの中では塚本さんは非常に楽しい心の大きな方で本当に大好きでしたし、大変尊敬する方でした。同時に京セラ創業者の稲盛和夫さんにもとてもお世話になりました。
─ ちょうどその頃、洋菓子事業がうまくいっていた時ですね。
近藤 はい。当時にはなかったフワフワの柔らかいケーキを作りまして、それが大ヒットしたんです。空気と水を入れてたくさん試行錯誤してできたのが、フワフワのケーキ『ファンシー』。これが、とてもよく売れました。毎日2万3千個ぐらい作っていましたね。
─ 工場は一宮にありましたが、東京にはどうやって売っていたんですか。
近藤 東京ではケーキの工場を持てないから、クッキーやパウンドケーキなどの焼き菓子だけでした。ご縁があって高松宮両殿下に大変可愛がっていただきまして、葉山御用邸のお菓子や昭和天皇のダイヤモンド婚式の記念菓も作らせていただきました。
福島にある天鏡閣のタイルをデザインしたクッキーもつくらせていただき、これは大変喜んでいただきました。
─ 他にはどういう場所で販売されていたんですか。
近藤 帝国ホテルさん、ニューオータニさん、オークラさん、目黒雅叙園さんなどのホテルや、全日空さんでも販売していました。ブライダルケーキだけで、50〜60億円くらいの売上がありました。
恐らく当時、ブライダルケーキではトップだったと思います。
それから伊勢神宮でもお世話になりました。年始に毎年恒例で、1月4日の総理大臣の伊勢神宮参拝がありますよね。
そこで伊勢神宮の慶光院大宮司からご連絡をいただき、総理大臣や閣僚に渡すお土産のお菓子もわれわれがつくらせていただいていました。
─ そうしたお菓子の仕事に励みながら経済人の異業種交流の場「VAV倶楽部」を手掛けるようになったきっかけはなんですか。
近藤 いきさつは、当時若い人たちがわたしと一緒にいると有名な方々と会えると言いだして、最初は「近藤さんを囲む会」という場があったんです。
それが自然と大きくなって、誰かが名前を付けようと言い出して、「バイタリティ、アクション、ビクトリー」ということで頭文字をとってVAV倶楽部になりました。正直46年間も続くと思いませんでしたが、経営者の学びの場所ということでいろいろな方が来られます。
─ メンバーはオーナー経営者が多かったですか。
近藤 ほとんどそうですね。いまは40~50人位で開催してますが、20年位前は毎月300人、400人と集まっていました。
でも人が多すぎると変なセールスマンも来るんです。それでご迷惑をかけたくないと思って一度やめました。その後メンバーの整理をして入会金10万円をいただく方式に変更しました。
年会費はいただかないで2カ月に一度集まり、有力な方に講師をお願いして開催をしています。
─ この交流会をやっていて良かったと思うのはどんなことですか。
近藤 おいでくださった方がこの会に入って良かったと本当に喜んでくださることですね。最近では福島県や青森県、福岡県など、遠隔地からも入会されるようになりました。
メンバーの人たちは言ってみればお金儲け主義ではなく、誠実に経営理念を掲げてお仕事に取り組んでおられ、互いに啓発し合うという関係です。女性のメンバーも3割はいらっしゃいますね。
─ 近藤さんから見て、伸びていった人はどういうタイプの人ですか。
近藤 素直で真面目で行動力のある人が伸びていきます。それから気前のいい人だと思います。
D・トランプ氏とも縁が…
─ トランプ大統領が登場したことで、分断対立が強まるだとか、経済でも関税が高くなりインフレが進むのではないかとか。日本も自分の国は自分で守れという氏の主張も含めて、いろいろとこれから試される時代に突入しますね。
近藤 そうですね。ずいぶん変わるでしょうね。トランプさんはそれぐらい力があるんですね。わたしどももトランプワインというものを全く別ルートでしたが日本で専属販売させてもらっていたりと縁があります。
もうかなり前ですが、トランプさんは赤坂のニュージャパンビル(現プルデンシャルタワー)を買収したいと来日されました。
─ 1982年(昭和57年)にホテルニュージャパンは火災で焼失しましたね。トランプ氏はその頃、日本に来ていたんですか。
近藤 はい。焼けた跡地に彼はそこにトランプタワーを建てたいとその跡地を買いに来られたんですよ。
同じ愛知県出身の横井英樹さんがちょうど赤坂に住んでおられまして、わたしは知り合いだったんです。
「今度トランプさんが来るんだけど、オークラに5泊泊まるんだと。近藤さん、1日ぐらい少し変わった宿は知らない?」と言われて、ちょうどその頃わたしは、新しくなった目黒雅叙園にご縁がありましてね。
雅叙園の当時オーナーの細川さんが、スイートルームを使ってもいいと言ってくださったんです。それで横井さんに雅叙園にお泊まりいただいたらとご紹介して、トランプさんご夫妻はそこに泊まっていただいたのでした。
─ トランプ氏はなぜそのビルを買わなかったんでしょうか。
近藤 たしか、地下に何かあるとか、いろいろと事情があったようです。詳しいことは存じませんが、結局諦めたんですね。これは世間ではあまり知られていないことだと思います。
人生に影響を与えた人
─ 民間人で近藤さんの人生に影響を与えた人は他にどんな人がいますか。
近藤 一番影響を与えてくださった人は、昭和天皇の侍従長の入江相政さんです。
入江さんはいろいろな宴会に行かれるときに、目が不自由でいらした奥様のためにいつもテープレコーダーを持って行って録音して、お休み前に奥様と一緒に聞いているんだということを聞きましてね。
そのお人柄、優しさには感動しましたし、人としての在り方において大変影響を受けました。お宅にもお招きいただき頻繁に交流させていただいていました。
それから事業家ではないですが、詩人の相田みつをさんです。先生もいろいろ人に騙されたり、お金を取られたりで、個人的にもご相談を受けていました。
先生のご子息が、相田の名前を継がずに、〝西一人〟という名前で当時、広告会社を経営されていました。大阪花博の頃にわたしとのご縁が出来て、その後、相田一人という名前に戻されたんです。結局、息子さんはいまお父さんの後を受け継いで美術館運営をやっておられます。
─ 相田みつをさんは詩集『にんげんだもの』などを出版され、「つまづいたっていいじゃないか」と、人々に寄り添い励ましてこられましたね。
近藤 そうですね。相田さんは栃木県足利市在住で、本当に質素な家に住まわれていました。戸障子などもガタガタっと揺れる感じでしたが、自宅は風情のあるものでした。それがとても印象に残っています。
─ 足利のお宅まで行ったんですか。
近藤 はい。当時TKCという会計雑誌で、わたしは創業者に頼まれて推薦図書を書いていたんです。そのときに、相田さんはまだあまり有名ではなかった頃でしたが、『にんげんだもの』を推薦したら、数ページで大きく取り上げられたんです。
偶然かもしれませんがそれから本が売れ出しまして。先生から電話がかかってきて、「近藤さんにぜひお会いしたい」と。当然会ったこともないですし、ただ先生の本が好きで勝手に紹介しただけでしたので、本当に驚きました。
それで、わたしに会いに来られると言われたんですが、「先生わたしが行きますよ」と足利へ行ったんです。そのときに、相田さんはわたしにお土産としておまんじゅうを買っていてくださったのですが、話が弾んで、すっかり渡し忘れてしまっておられたのでした(笑)。
わたしがタクシーで駅に向かって切符を買っていたところ、背中を誰かがポンポンと叩くんですね。振り返るとニコニコ笑顔の相田さんが立っておられるんですよ。
「近藤さんにと思って買っておいたまんじゅうを渡し忘れちゃったよ」とタクシーで追いかけて来られたんです。
このときに、この方はすごい方だな、こんな小さなことに心動かしてくださるなんて、と思いましてね。それで相田さんに何かできないかなと思いまして、わたしは当時いろいろなところで講演をやっていましたから、行った先々で相田さんの著書『にんげんだもの』を売らせていただいたんです。
これがまたとてもよく売れまして、多い人で社員に読ませるといって5~600冊買ってくださる経営者もおられました。
─ 相田さんの本の魅力はどういったところにあると感じましたか。
近藤 やはり本には、当たり前のことをまじめに書いてあるんですよね。
「つまづいたっていいじゃないか、人間だもの」とかね。当たり前だからこそ、あの人の詩は全部心を打つんですよね。「その時の出逢いが人生を根底から変えることがある」という言葉も好きですね。
─ 今の時代、そういうことが失われてますね。
近藤 ええ。だから、わたしはまさにいま〝相田みつをの時代〟だと思っています。本当に純粋で素直で素敵な方でした。
─ 近藤さんは自分自身もいろいろな事業をやってきて、つらいときや、苦しい時期をどう乗り越えてきましたか。
近藤 そうですね、バブルが弾ける前に大変な借金を作ったことはありました。事業がうまくいっていましたから、銀行さんがお金を借りてくれと何度もわたしのところへ来られていたんです。
それで、おだてられて買わなくてもいい土地を買ったり、ついにハワイのホテルまで買ってしまったんですね。
その時は周りでいろいろ言われたりもしましたが、何も弁解せず、何を言われても耐えて、反論もしなかったです。それでうまくいくようになりました。
わたしはこれまで、公正公平に生きてきましたし、人間性が良い方々と付き合うことが幸せな人生を歩む道標だという信念でこれまでやってきました。これからも人としてお天道様に恥ずかしくない生き方、あり方を続けていきたいと思っています。