今、人々の生活や仕事を大きく変える存在として注目される「AI(人工知能)」。自然言語を理解・学習するコグニティブ・コンピューティング・システム(Cognitive Computing System)を標榜するIBMの「Watson」も、ビジネスのさまざまな分野において活用が進みつつある。4月20日から22日にかけて東京ビッグサイトで開催された「ヘルスケアIT 2016」において、日本IBM ワトソン事業部ヘルスケア事業開発部長の溝上敏文氏は「Watsonと医療の世界」と題するセッションに登壇。AI技術を用いて医療の世界にどう貢献していくのか、同社の姿勢が示された。

米国で進む、Watsonの医療への活用

日本IBMワトソン事業部ヘルスケア事業開発部長 溝上敏文氏

日本IBM ワトソン事業部ヘルスケア事業開発部長の溝上敏文氏

「Watsonを使ってIBMが医療の世界で目指しているのは、コンピュータと人間との新しい関係性の創出であり、新しいコンピュータの使い方によって、世の中に変革をもたらすことです」──開口一番、溝上氏はこう力説した。

Watsonの支援が正確な診断につながれば、より多くの人々の命を救えるだけでなく、高騰する医療費の削減にも貢献できる。そこでまずIBMが目をつけたのが、がんの研究だ。がんは医療の世界でも特に研究者が多い領域であり、論文も数多く書かれている。つまり、Watsonが学習し、分析する対象となるデータが豊富に存在するのである。

IBMは、米国の医療研究機関などと連携し、Watsonを用いた医療ソリューションの開発に取り組んでいった。まず最初に解決すべき課題となったのが、データ構造だ。電子カルテにせよ、特許情報にせよ、医療に関するデータのほとんどは非構造化データである。コンピュータは、そこに書かれている医療用語を認識し、それぞれの用語間の関係性を読み取って理解しなければならない。例えば、「この病気ではこの症状が表れやすい」とか、「この薬はタンパク質をターゲットにしている」といった具合だ。それには、代名詞が何を指しているのかまでを含めて、自然言語を認識させる必要がある。

溝上氏は、「コンピュータが自然言語を読みこなせるようにする際、医学の世界にはすでにUMLS(Unified Medical Language System:統合医学用語システム)があるので比較的やりやすい面もあります。ただし、UMLSの日本語版はないので、これを早急に作成する必要があるのではないかと思ってます」と説明する。

非構造化データを構造化データに変換する役割を担うのが、IBMが提供する情報認識/調査ソリューション「IBM Watson Explorer」である。同製品はオンプレミス/クラウドのいずれでも利用可能となっており、強力な情報抽出機能や分析機能を備えるほか、業界・事業領域に固有の辞書(オントロジー情報)を作成することができるというものだ。

「現在、機械学習ベースのアノテーション機能の開発も進めています。Watson搭載アプリの構築に使用できるWatson APIライブラリ『Watson Developer Cloud』では、日本語も含めてIBM Watson Explorerをサポートする予定です」(溝上氏)

大量の論文を読み取り、知識体系を構築するWatson

また、「Watson Discovery Advisor for Life Science」は、こうした構造化データ作成機能を活用し、大量の医学文献から知識体系を構築することができるソリューションである。医学文献を読み込んでその意味を理解し、アノテーション(メタ情報)を付与して新たな理解へとつなげる仕組みになっており、主に製薬業界向けに提供されている。

溝上氏は、「研究者の誰もが自分の論文についてはよく理解しているものの、他の研究者が書いた論文となるとすべて読めるわけではありません。他の論文もすべて読み込み、知識集合体系の構築を目指すというアプローチを可能にするのが、Watson Discovery Advisor for Life Scienceなのです」と力を込める。

Watson Discovery Advisor for Life Scienceでは、まず、生化学関連の辞書データを使ってデータの正規化を行う。そして、言葉と言葉の関係性を読み取って理解しながら、エンティティ(データの集合体)間の関係性を抽出していく。ここでは、自然言語処理の技術が使われるのだという。

「Watsonをトレーニングし、エキスパートによる検証を重ねていくことで、最終的にはコンピュータが得意とする構造化データを使ったさまざまな解析ができるようになります」(溝上氏)

Watson Discovery Advisor for Life Scienceと似ているものの、さらに遺伝子研究に特化したソリューションとなるのが「Watson Genomics Analytics」である。これは、法制度をはじめとした社会的な受け入れ体制が整ったときに医療現場で使えるよう、東京大学医科学研究所との共同研究が進められている。

具体的には、東京大学医科学研究所の患者からインフォームドコンセントにより了承を得た後に、患者の全ゲノム情報をDNAシークエンシングし、スーパーコンピュータでゲノム分析して変位情報を取得。こうして得られた情報を適切な薬剤処方に役立てることを目指しているのである。

2014年に設立された米IBM Watson Health事業部は、ボストンに拠点を置き、ヘルスケア分野でのビッグデータ解析などを推進している。昨年9月には、医療機関や大学、各種研究機関などとのパートナーシップをさらに拡大した。

「研究分野については日本でもビジネスを先行させやすいのですが、診療分野については法対応などもあるので、その展開を見ながら貢献していければと考えています。現在、センシング分野の進化などもあり、包括的な健康情報を使った新しいヘルスケアへの挑戦が可能となっています。それは、IBM1社だけでできるわけではないので、各国の企業とのパートナーシップが重要になるでしょう。日本においても、この分野の先駆者と歩んでいければと願っています」──最後に溝上氏はこう結び、セッションを終了した。