設計者の哲学、それに基づくデザイン次第で都市は、再生もするし荒廃もする。都市デザインの魅力に目を開かれてニューヨークに戻ったらなんと、「20世紀のニューヨークを作った」といわれるリチャード・モーゼズの回顧展が、市内3か所で開催中だった。

モーゼズといっても日本人にはなじみの薄い名前だ。しかし彼の履歴をたどると、単純明快に圧倒される。1934年から1960年代後半まで30年以上にわたりニューヨーク州、市の公共事業、都市計画のほぼ全権を握っていた。業績は何ページものリストになるだろう。我々でも知っている範囲で言うと、マンハッタン、クイーンズ、ブロンクスをつなぐ、「トライボーロ・ブリッジ」をはじめ多くの自動車橋、また30年代以降作られたほとんどの高速道路網も彼のデザインによる。また30年代以降作られた市内の主要な公共建造物は、多かれ少なかれ彼の計画、もしくはその影響下で作られた。リンカーンセンター、国連本部、セントラルパーク内の動物園、劇場、多数の遊園地、市内数百に及ぶ公営プールなどなど...。

足跡が巨大すぎる。全体像をつかむのも大変だ。だから回顧展は、ニューヨーク市博物館では、「大都市の再建」をテーマに、クイーンズ美術館が、「レクリエーションのための道路建設」を中心に、そしてコロンビア大学のギャラリーでは、「スラムの解体と大規模住宅開発」-- と3会場に分けて開催することになった。

1889年、ニューヨークに隣接するコネチカット州で裕福な百貨店と不動産業を営むドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれたモーゼズは、最高の教育をうけた。イエール大学で学士号を、英国オックスフォード大学で修士号を、そしてコロンビア大学で政治学博士号を得る。彼が関心を持ったのは、地方行政の政治過程で、こうしたことからニューヨーク市政に参画してゆく。

若きモーゼズが都市プランナーとして頭角を現したのは20年代、ロングアイランドでの公営ビーチ作りだ。この時代、公営のリクリエーション・センターを作ること自体が新しい考えだった。こうしたプランニングを通じ、後に州知事となるアル・スミス、スミスを継いだローズベルト(言うまでもなく後の米国大統領)、ラガーディア市長らの信頼を勝ち得てゆく。

30年代、ローズベルト大統領が大恐慌の対策として打ち出した大規模な公共投資、「ニューディール」がモーゼズの夢を現実にする。大統領が地元出身ということもあったが、モーゼズのニューヨーク州、市は入念な公共事業計画を事前に用意していたので機敏に対応することが出来、巨額の予算を獲得した。

「ニューディール」政策のもとモーゼズは、ナイアガラの水力発電所、今日われわれが見るほとんどのニューヨーク周辺の高速道路、それにかかる橋、モーゼズ自身の計算によると市内660か所の遊園地を作り出された。ニューヨーク市の公園面積は倍増した。

自らの都市計画理念について、モーゼズは、こう語っている。「コンクリートと鉄骨の過密空間に光を入れ、公園に樹木を植え、遊園地を作り子供の笑い声を取り戻す。そして市内と郊外を結ぶ快適な自動車道路を作る」。工業化が最優先された時代に、都市の住民が求めていたものを予見した能力はさすがだ。

モーゼズのパワーは、州と市の都市対策に関する責任者を兼務していたこと、高速道路専用橋がもたらす莫大な通行料を自由に使えたところにあった。

しかし長すぎた権力体制は必然的に腐敗と、反発を招く。評価が逆転するのは50年代以降の再開発をめぐってだ。これによって多くの古い町並みが破壊された。ニューヨーカーが未だに惜しむ旧ペンシルバニア(ペン)・ステーションの取り壊しは、その典型といわれる。反発は、市の歴史的遺産と景観を守ろうとする市民団体と、彼が推進したスラム撤去により移転を余儀なくされた低所得層の双方から生じた。モーゼズとは正反対の立場に立つジェイン・ジェイコブスの著作が生まれるのはこの頃である。

反対運動の盛り上がりで、モーゼズの多くの野心的なプロジェクトが取りやめとなった。マンハッタンの先端、バッテリー・パークとブルックリンをつなぐ自動車橋の建設や、ダウンタウンに高速道路を通そうとしたプロジェクト、セントラルパークに広大な駐車場を造るといった計画である。これらのプロジェクトが強行されていたら、ソーホーやグリニッジ・ビレッジは全く違う姿となっていただろう。

「スラム対策委員長」としてサウスブロンクスなどのスラムを撤去したのはいいのだが、その後に作った公営高層アパートが地域のつながりを破壊し、かえってスラムを拡散した、という批判も高まった。かくてモーゼズは1968年、リンゼイ市長に権力をはく奪され、「ニューヨークの造成者」に地位から降りた。

それから40年近くたった今、「彼の都市改造がなければニューヨークは21世紀に対応できなかっただろう」(回顧展を企画したヒラリー・バロン コロンビア大学教授)という再評価の声が上がっている。人の評価は難しい。