フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
2年で100台の目標
1946年 (昭和21) 5月21日、石井茂吉と森澤信夫は写真植字機事業における再提携の契約を結んだ。信夫が機械本体をつくり、茂吉がそれにレンズと文字盤、電気部品を取りつけて売る。邦文写真植字機をこの世に生み出したふたりは、ふたたびともに歩むことになった。
ふたりはまず、製造販売目標を決めた。1946年 (昭和21) 6月から1947年 (昭和22) 4月に入るまでを準備期間とし、つづく1年 (1947年4月~1948年3月) で50台、そのつぎの1年 (1948年4月~1949年3月) で50台。2年間で100台を製造し、売っていこうという計画だった。製作する機種はA型。戦前の石井式写真植字機の電源部を改造した機種である。
1929年 (昭和4) に最初の実用機を販売してから1944年 (昭和19) ごろまでの出荷台数は約80台だ。それをかんがえると、たった2年で100台を出荷しようというのは、無謀な計画におもえるかもしれない。しかし戦後の状況は、戦前とはおおきく異なっていた。
戦時中の言論統制を経て、ひとびとは活字にひどく飢えていた。その飢餓感は出版ブームにむすびついたが、用紙などの物資が不足し、出版・印刷界は混乱におちいった。だからこそ、本でも雑誌でも、つくって出すことさえできれば売れた。粗悪な紙をもちいた「カストリ雑誌」と呼ばれる大衆向け娯楽雑誌が、飛ぶように売れた時代だった。[注1]
その熱狂的状況に、印刷界の復興はすぐには追いつかなかった。印刷業者はそもそも戦時中の企業整備により激減し、東京の印刷業者は1944年 (昭和19) の5,786社から、翌1945年 (昭和20) 3月時点で1,194社になっていた。さらにその後、空襲が追い打ちをかけ、7割弱が罹災して、壊滅的なダメージを受けたのだ。[注2]
茂吉が大塚の工場も家もいっさいを失ったように、印刷業者の多くは工場を焼失し、あるいは印刷機や活字、母型などの設備を失っていた。
戦前の活版印刷にもちいる活字は、そのおおもとの型である種字を彫刻師が原寸・鏡文字で手彫りしてつくられていた。しかし若き種字彫刻師やその卵たちも戦争に徴兵され、戦後は極度の種字彫刻師不足となった。一刻も早く活字を復活させたくても、かんじんの彫刻師がいない。そこで活版印刷を復興すべく三省堂や大日本印刷、津上製作所によっておこなわれたのが、アメリカで開発されたベントン母型彫刻機の国産化と普及だった。[注3]
いっぽう、焼け跡の大塚で茂吉が「あちこちの印刷工場が焼けてしまうと、活字の鉛がなくなって、写真植字機はますます必要になってくるのになあ」(本連載 第77回参照) とつぶやいたように、印刷界のなかには新設備として写真植字機に目を向けたひとたちがいた。活字に比べて設備に場所をとらず、戦争を経てまっさらとなった状態で導入するのにハードルが低い。
やがて販売を担当する茂吉のもとに、注文が相次いで入った。[注4]
すぐさま5台の注文
最初の注文は、下中彌三郎 (1878-1961) が社長をつとめる出版社・平凡社だった。下中はかつて中国・北京にあった日中合弁印刷会社・新民印書館の創設にかかわった人物だ。新民印書館は1945年 (昭和20) の終戦とともに接収され、そこで働いていた100人あまりの印刷技術者が帰国することになった。そこで平凡社では、なんとか仕事をつくってこのひとたちを迎えてやりたいと大日本印刷、凸版印刷、共同印刷の3社に相談したが、戦後の混乱時代にあって各社とも自社のことすらままならぬ状況ゆえ、話が進まない。
そこで下中は、自社で東京 (板橋区成増) に印刷工場をひらくことを決めた。東京印書館である。それも、ただの印刷工場ではない。活版全盛の時代において、彼が目指したのは「活字のない印刷工場」だった。――本文組版を活字ではなく写真植字でおこなおうという構想である。
この構想は、新民印書館で工務責任者をつとめていた和田栄吉の進言によるものだった。新民印書館の立ち上げ時には完全な活版人で、北京を訪れた茂吉にけんもほろろだった和田は (本連載 第74回参照)、新民印書館で必死に仕事をこなした浅野長雅や佐藤行雄の働きによって、すっかり写植のファンになっていた。和田は新民印書館で活版設備をそろえる経験もし、その大変さも身にしみて理解していた。だからこそ、これから新たに印刷工場を立ち上げるのであれば活字ではなく写植だというかんがえに至ったのだった。[注5]
平凡社からの注文は1946年 (昭和21) 7月で、一気に5台というものだった。東京印書館は、1947年 (昭和22) 2月26日に下中彌三郎や和田栄吉らによって「株式会社東京印書館設立準備委員会」が立ち上げられ、同年8月8日に開業。同10月末に資本金200万円の株式会社として設立登記が完了し、取締役社長・下中彌三郎、専務取締役・和田栄吉、常務取締役・高橋周兵衛が就任した会社である (当時の従業員は31名) 。[注6]
つまり、写研とモリサワ両社の社史に記録されている1946年 (昭和21) 7月の注文時点では、東京印書館自体はまだ立ち上がっていない。『平凡社百年史』や『東京印書館の50年』といった社史にもこの注文の直接的な記録は見られないのだが (創業まもない時期から写真植字機を導入した記述はある [注7] )、設立準備委員会の立ち上げより前から、和田は米軍に接収された機械類の引き出し交渉など、印刷工場の設立準備を進めており、写真植字機の注文も、他の準備に先がけておこなわれていたのだろう。
焼け跡の畑への訪問者
和田は1946年 (昭和21) 3月、他の引揚者と一緒に中国から帰国し、下中に「活字のない印刷工場」の進言をしていた。そして下中の使いとして同年夏、大塚の焼け跡で暮らす茂吉のもとをたずねた。和田自身の手記が『追想 石井茂吉』に掲載されている。[注8]
〈終戦後に石井さんにお目にかかったのは、昭和二十一年の夏だった。都電の車庫を目標にしてようやく探し当てたほど、あたり一面は殺風景な空襲の跡だった。その焼け跡のなかのサツマイモとカボチャ畑の中に石井さんの仮の住まいがあったわけだ。〉[注9]
このとき茂吉は熱心にサツマイモのつるを返す作業に取り組んでいる最中で、現れた和田に、サツマイモのつる返しの作業が収穫を増すためにどれほどたいせつか熱弁をふるい、「何事にも研究的な人だ」と妙な感心をさせたことは、本連載 第78回 でもふれたとおりだ。
仮住まいに案内された和田が、茂吉といくに対し「写真植字機の注文をしたい」と用件を切り出すと、茂吉の話はがぜん熱を帯びた。和田は、いま自分が平凡社・下中彌三郎の指揮で東京印書館というあたらしい印刷会社の工場建設に取り組んでおり、5台の写植機を注文したいことを伝えた。
すると茂吉は、部屋の片隅からやおら木の箱を持ってきて、なかから隅がところどころ焼け焦げた活字見本帳を30冊ほど取り出した。東京築地活版製造所や秀英舎ものから、大阪の森川龍文堂のものまで、大正末期から昭和中期にかけての古い見本帳だった。そして、〈こういう活字の書体を示す見本帳は、これからは容易に手に入らないということをつねづね考えていたから、家財のことよりもいちばん先に持ち出した〉と語った。
茂吉はいつものとつとつとした口調で、しかし異常なほどの熱をこめながら、活字見本帳を中心に文字の話にのめりこんだ。和田は「機械の注文の話にはちょっと触れただけか……」と内心不満だったが、茂吉の熱い語りにいつしか引きこまれていた。
気がつけば2時間が経っていた。 茂吉は、和田からの写植機5台の注文を受諾した。
別れぎわに、和田は笑いながら茂吉に言った。 「サツマイモは農夫のつくるものだが、写真植字機は石井さん、あなたに立ち上がっていただかぬと困りますよ」
茂吉は和田の冗談に顔をほころばせながら、彼を見送った。[注10]
(つづく)
※本連載は隔週更新となります。
次は4月14日更新予定です。
[注1] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.49
[注2] 東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂『東京印書館の50年』東京印書館、1998 p.35
[注3] 雪 朱里『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』三省堂、2021
[注4] ここまでは、おもに『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.181-182、文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.49-50 を参照
[注5]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.181-182、文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.49-50
[注6] 東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂『東京印書館の50年』東京印書館、1998 p.36
[注7] 東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂『東京印書館の50年』東京印書館、1998 p.38、p.44、p.46、p.262など
[注8] 和田栄吉「焦げた活字見本帳に寄せる執念」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.182-184
[注9] 和田栄吉「焦げた活字見本帳に寄せる執念」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.182
[注10] 和田栄吉「焦げた活字見本帳に寄せる執念」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.182-184
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
下中彌三郎伝刊行会 編『下中彌三郎事典』平凡社、1965
東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂『東京印書館の50年』東京印書館、1998
尾崎秀樹 著『平凡社百年史 1914-1973 別巻 (下中彌三郎と平凡社の歩み)』平凡社、2015
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
