現代のデジタル写真に対するレタッチや合成技術は、写真を改ざんしても痕跡がわからないほどに進歩した。また、携帯電話にカメラ機能が搭載され1人1台のカメラを持つ時代になっている。そのような時代には様々なモラルが必要だと飯沢はいう。報道写真の最終回は、デジタル時代における写真のモラルについて。

世界報道写真大賞2007。ティム・ヘザリントン 「9月16日、アフガニスタンのコレンガル渓谷の掩蔽壕で休息をとる米軍兵士」

デジタル時代の報道写真の危うさ

現代のデジタル技術は、データを改ざんされてもわからないくらい進歩してしまった。これはフォト・ジャーナリズムにとって、非常に大きな問題だと思う。2003年、『ロサンゼルス・タイムズ』紙は、イラク戦争でイギリス軍の兵士が住民に避難を呼びかけている写真を掲載した。しかし、後々にこの写真は2枚の写真を合成したものだとわかった。そのようなことをすると、出来事を伝えるという報道写真の信頼性が失われてしまう。見る方も疑ってしまうけど、疑っても解明できないところまで技術は進化してしまった。しかし、2枚の写真を組み合わせることで、迫力のある写真ができて、お金になるという誘惑があったら、写真家や編集者がその誘惑に勝てるかどうかは難しいね。だから写真データを改ざんする、しないということは、もはやモラルや倫理の問題だよ。

携帯電話で写真を撮るモラル

『デジグラフィ -- デジタルは写真を殺すのか?』 飯沢耕太郎著、中央公論新社/単行本
銀塩写真とデジタル写真のあり方の違いや、デジタル写真の可能性について書いたデジタル・イメージ論

秋葉原の無差別殺人事件はまだ記憶に新しいと思う。あの事件の報道を見たとき、現代はこういう状況まできているのかと怖さを感じたね。事件の生々しい現場で、携帯で写真をとっている人がいたり、その映像がネットに無差別に流れたり。マスコミの報道も、興味本位のものが多かったように思う。

今、報道写真が厳しい状況になってきている原因のひとつに、我々1人ひとりがカメラを持ち始めたということがある。今までは読者が行けないような現場に踏み込んで写真を撮ってくるから報道写真家は特別な存在だった。だから読者は尊敬を込めた眼差しで彼らを見ていた。だけど今みたいな状況では、それがなくなってしまった。

あの時、携帯電話で写真を撮っていた人々は、「自分は安全な場所から撮っている」という意識だったと思う。彼らが撮る写真は、報道写真家が弾が飛び交う戦場などで危険に身をさらして撮る写真とはまったく意味が違う。携帯電話で撮っている人は、お茶の間でテレビを見ている感覚で撮っているんだよ。でも誰でも偶然に現場に居合わせてしまって、カメラを持っていたら撮ってしまうんじゃないのかな? 「撮るか? 撮らないか?」という判断を、その場で瞬時にすることはとても難しい。しかし、撮った後にその写真を「見せない 発表しない」という選択肢を選ぶことはできる。きっと携帯電話で撮影した人のモラルは発表するときに問われるんだろうね。だけど今のマスコミは、携帯電話などで撮った映像を回収してメディアに発表してしまう。これはもう見識や社会常識の問題として考えるべきことだと思う。

情報が溢れる現代社会

今の時代は、暴力的に情報が目に入ってしまう時代でもある。僕は最近、2ヶ月間ほどタンザニアのザンジバル島にいて、日本の新聞やテレビからは離れていたんだけど、メールをチェックする時、ついついトップニュースが目に入っちゃうんだよね。見出しなんかを見てしまうと、ついクリックしたくなる。日本にいないのに、日本の情報がどこまでもついて回ってくることで、すごく嫌な気分になってしまった。ろくなニュースがないしね。

昔に比べて世界の出来事がどんどん目や耳に入ってくるようになった。中国の四川省の大地震のニュースは、タンザニアでもテレビニュースで大きく取り上げられていたからね。人間の情報処理能力は限りがあるから、情報量が増えたとしても、それを受け止めて反応できる量は限られる。テレビやインターネットは生活を大きく変えた。だけど、とくにインターネットの怖さや危うさの感覚をどこかで持ち続けないと、情報の海の中で溺れてしまうと思う。パソコンの前に座っていたら一日中そこにいられるからね。今は、逆に情報の選択が難しい時代になってきた。そのような時代だからこそ、情報をきちんと受け止めて、それについて咀嚼して考えることが大切なんだ。そして考えるだけじゃなくて、形にしていく一連のプロセス……、例えば僕なら文章を書くとか、普通の人でも受け取った情報について人と話すとかね。そのようなことを続けるうちにバラバラに起こった出来事(情報)が繋がってきて、それが知性を磨くことに繋がると思う。

記憶に残る写真の力

写真が持っている"出来事を伝える力"は、報道写真のようなジャンルでは強く現れる。「9.11」の時にも思ったけど、テレビで飛行機が貿易センタービルに突っ込んでいく映像が流れているのを見て、そこから時間が経って頭の中に残っているものは、ビルが崩れる瞬間とか、ぶつかった瞬間とかの静止画像なんだ。やはり動画は人間の記憶の中に残りづらい。静止画像で見るイメージというのは、文字通り1枚1枚記憶の中に刻み込まれると思う。そう考えると、テレビ全盛の時代でも、静止画像として出来事を捉えていくことの意味は大きいはず。報道写真を見てショックを受けるという構造そのものは、19世紀に報道写真が登場してから変わっていない。写真が持っている「記憶に残る力」は独特だと思う。テレビで報じられる出来事よりずっと細やかで強力なんだ。写真を見ていると臨場感が全身的な感覚として伝わってくるところがあって、匂いとか温度とか、もっと生理的な恐怖感が直接的に人間の体に伝わってくるところがある。そこはやっぱり写真は強い。

今は報道写真の「冬の時代」だと言われているけど、今後もずっと残っていって欲しいジャンルだよね。世界に色んな出来事があり、その出来事を追いかけていくエネルギーが大切だけど、今は情報が多すぎて、受け取る側も好奇心が薄れているように思う。これは何とかしないといけないね。報道写真展を見ると、それでも新しい報道写真のあり方に変わってきているから、見る側の意識も変わらなければいけないのかもしれないね。

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)