マツコ・デラックス出演の「50日間で女性の顔は変わるのか!?」というTV番組が話題になった。
顔を変えると言っても整形や、初日ピーナツ、最終日スイカを鼻に詰めるなどして、顔を物理的に変える、という番組ではない。
手を加えるのは顔ではない「環境」つまり「メンタル」の方である。
私は同番組を見ていないのだが、引きこもりやオタク等、世間的イメージからするとあまり日の当たらない、サッシの溝や冷蔵庫の裏に住んでそうと思われているタイプの女を、50日間、海で有名なリゾート地である葉山に住ませたり、オシャレ雑誌の編集部でバイトさせたり、イタリア語を習わせイタリア男に褒め殺させたり、350万円のダイヤを身に着けさせりして、顔の変化を調べたそうだ。
確かに「環境」で顔は変わった
当初彼女らは、ブスというわけではないが、格調高いところに入ろうとしたら「その顔はドレスコードに反す」と言われ、黒服に両脇を掴まれるような、垢抜けない表情をしていた。
それが50日後、彼女たちは一目でわかるほど可愛らしくなっていた。
私ぐらい長く、サッシの溝に住んでいると、「化粧じゃね?」「この手のビフォア・アフターで髪型を変えさせるのはチート」「なぜビフォアでダサいメガネをかけている奴が多いのか、流行っているのか、そしてなぜアフターで外させるのか、視力まで良くなったのか」といくらでもケチがつけられるが、視聴者からは「顔つきや姿勢が全然違う、環境って大事」と、その変化に驚く声が相次いでいたようなので、変化があったことに違いはないようだ。
確かに「環境」というのは大事である。
人間には、生まれながらに、顔のデザインの汎用性とか、頭のギガ数とか様々な差がある。しかし生まれて持った資質よりももっと重要なのは「環境」と言われている。
どんなに優れた能力を持っていても、それを周囲の人間が全く認めたり褒めたりせず、家族全員「もっとがんばれbot」だったら、自己肯定感が育たず、自尊心の低い卑屈な人間になってしまい、もちろん生まれて持った能力も生かせない。
逆に、能力的にも文字通り「裸一貫」で生まれてきた人間でも「呼吸の達人」「心臓の天才ドラマー」「お前は生きてるだけで素晴らしい」と周囲に言われ続ければ、自己肯定感は育つのだ。
よって「褒め」、つまり他人による「承認」というのは人間のメンタルに大きな影響を与える。イタリア人に50日褒めさせることにより、自己肯定感が上がり、顔つきまで変わっても不思議ではない。
またイタリア人男性というのもミソだ。我々冷蔵庫の裏の住人は、褒めてくる人間を「絵画ローン」か「宗教」の二択だと思っている。
基本的に「心にもないこと言いやがって」と思っており、実際心にもない場合が多いのだが、イタリア人男性は、本当にそう思って褒めている。または心にもないけど、相手の女にないはずの心の幻覚を見せる能力に長けているのだろう。
つまり、サッシの溝と冷蔵庫の裏の反復横飛びの女でも素直に受け入れられるほど、「褒めが上手い」のだと思う。そこら辺の日本人のイケメンに褒めさせても「おめー、ラッセンの絵の複製原画だな?」と、ますます閉じてしまうのだ。
また「葉山に住む」「オシャレ職場で働く」のような「生活環境」も大事である。私も完全に「ビフォア顔」であり、ドレスコードはもちろん放送コードにも引っかかる表情をしているのだが、当然のように部屋が汚い。
部屋の床は見えず、久々に床の物をどけたら床が「腐っていた」。さすがの私もこれを見た時は「SAN値が下がる音」を聞いた。どれだけ部屋を片付けようが床が腐っているので、それを見る度ブルーになる。
汚部屋の住人は基本的に、汚くても生活できるのだが、その部屋の汚さにテンションが下がることはあれど、上がることはないのだ。そこにいる限り明るい気分になることはない。
また私は一日の大半を家の中で一人ですごしている。
人の目がなければ、見た目は荒む一方であり、表情も死ぬばかりだ。たまに外に出るときは、放送コードどころか、法に反してないか心配になる。
よって、キレイなオフィスでオシャレな人に囲まれることにより、己もそうなる、もしくは二日目から来なくなる、等の効果は期待できる。
でもビフォアとアフターのどちらが満足かは、本人が決めること
このように、変わりたいなら、まず環境を変えてみるというのも大事ということだ。高い化粧品や服を買うより、まず部屋の掃除をした方が効果があるかもしれない。
しかしこういった「ひきこもりやオタ女を変身させよう」という企画に対しては、「余計なお世話だ」という気持ちも常にある。
本人が変わりたいと思っているなら良いが、「女子は全員お姫様なんだから、オシャレして、いつも笑顔で顔を上げて歩いていなければもったいない」というのも価値観の押しつけである。
特にオタ女なんて、本人的には満足度の高い人生を送っている場合が多いのだ。それが垢抜けない顔をしているからと言って、「変わった方が良い」というのはおかしい。
日の当たる場所で顔を上げて笑顔な女より、暗い室内で猫より猫背、PCの中にいる推しの尊さに表情どころか感情を失っている女が不幸ということはないのだ。
ちなみにマツコデ・ラックスの反応は、変化に驚きつつも「ビフォアのままでも良いよ」と言っていたそうだ。
ビフォア顔も悪ではない。サッシの溝で暮らす権利も我々にはあるのだ。