去年『変な家』という映画が大ヒットした。
原作は小説でありコミカライズもされているが、大元はYouTube動画およびネット記事なので、変な家の話をするときはどのバージョンかを明らかにしてからの方が良い。
厄介な動画ファンである私に映画版の話をすると、話が映画上映時間より長くなるので注意してほしい。
物語は奇妙な間取りを持つ家の考察からはじまり「もしかしてこれは人間ぶっ殺しゾーンを持つ家では」という一見飛躍したひらめきから話は思わぬ方向に展開していく。
私の好きな動画版はここで終わっているので、その後の展開などないのだが、小説および映画版では「変な家」以上に「変な家庭」が関わっていることがわかる。
ただ人間ぶっ殺しゾーンがある家の人間ぶっ殺し家庭というのは少ないだろうが、「どっか変な家」はそこかしこに存在するものだ。
虐待には満たないが、親や家庭環境の特異性により、育ちづらさからの生きづらさ、トラウマを抱えてしまう者も少なくないのだ。
私も自分の家庭環境を悪いと思っていなかったが、私物を貯めこむ父親の特性により、家族の居住空間がなくなり、最終的に実家を出る27歳まで30過ぎの兄と祖母3人同室で「川の字」に寝ていた、という話をすると周囲は「変な顔」になるし、確かに今思えばあれは生活しづらかった。
どの家庭にも問題という名の「変」は存在し、それらが一切ない「普通の家」は「恵まれた家」なのだが、本人たちにその自覚はなく、そういう普通の家の人間が「うちの家は普通だし、他の家もみんなそう」という感覚で、親や家族をテーマにしたほっこり企画をやろうとすると、人間ぶっ殺し祭になってしまう。
巨人の勝敗でメンブレした父との「思い出」が噴出
先日Xの読売ジャイアンツ公式アカウントが、父の日に「#父とジャイアンツ」というタグで、父とジャイアンツの思い出を語ろうという企画を開催した。
「父と野球」という組み合わせの時点であまりいい記憶が蘇りそうにないのだが、さらにイメージイラストのひとつには「父のキゲンは、巨人が決めている」というキャッチフレーズがついていた。
企画者的には「巨人の勝敗ごときで一喜一憂している父が滑稽でたまらなかった」という懐かしい思い出なのかもしれないし「巨人が負けるたびに父親がエシディシのように泣き喚いていて6秒ですっきりしていた」なら、アンガーマネジメントという言葉が生まれる以前にマネジメントしていた父は偉大という話になる。
しかし、巨人によって不安定になった情緒を自分だけで立て直せないメンヘラパパも結構多かったのである。
現代の感覚で言えば「自分の機嫌は自分で取るのが大人」であり、まして子どもに機嫌を取らせる大人など存在してはならぬはずだ。
しかし、残念ながら今でも、親の情緒が不安定で、親にメンタルケアしてもらうどころか、子どもが親の顔色を窺っている家庭は存在する。
特に父親の多くが野球ファンだった時代は、家父長制が今より強く、むしろ父親のキゲンで家庭内の気圧が変化するのが普通でさえあった。
私が父の所業で川の字になっていたのも、一家の大黒柱たる父の権利が強かったから、と言いたいが、大黒柱は母で家は母方の祖母のものなのにこの有様だったので、もはや父というだけで無法が許されていた家庭もあったということだ。
「三大避けた方がいい話題」から野球が抜け、家庭がランクイン
よって「#父とジャイアンツ」タグには、巨人によって乱高下した父親のメンタルに振り回された「被害報告」が相次ぎ、少なくとも父に感謝する雰囲気にはなっていなかったようだ。
この企画を行った側が、本当にこのタグで父との良い思い出が語られると思っているなら、必ずしも良いものとは限らない家族や親子関係に対する認識が平和ボケしすぎている。
一昔前は「政治・宗教・野球」が三大避けた方が良い話題とされていたが、今では野球よりも「家族」の方がセンシティブな話題なのだ。
しかし、本当に朗らか企画だと思いこんでいたのなら「父のキゲンは、巨人が決めている」という、明らかに発火を狙った強風キャッチフレーズは入れないのではないか。
モラハラやDV被害者というのは、自分が被害にあっているという自覚がなく、自分が悪いと思い込んでいるケースも多い。
「#父とジャイアンツ」タグのフキハラ報告により、初めて「自分は被害者だった」という気づきを与え、被害当事者同士の語らいによる「回復」を促す企画だったという可能性がある。 そうだとしたら、この企画は、かつて親父のフキハラに加担してしまった巨人の罪滅ぼしだったのかもしれない。
そして、情緒が安定していて子供に不機嫌をぶつけない親というのは必ずしも「普通」ではなく、それをしない親に「恵まれた」と思った方が良い。
しかし、親が子どもの前で感情を隠し過ぎると、子どもは「他人にも感情がある」ということが理解できずに、他人に恐ろしく無神経になったりするので「親にも感情はある」ぐらいは教えておいた方がよい。