ソニーのAI(人工知能)やロボティクスの基礎技術の研究開発を担う、ソニーコンピュータサイエンス研究室が、茶美会(さびえ)文化研究所と共に、AIまわりのデジタル技術によって日本の伝統的な「茶の湯」文化を次世代に継承するという、新たな研究プロジェクトをスタートさせます。京都に開設された、研究施設を兼ねる茶室も公開されました。
京都の街中に作られたソニーの茶室「寂隠」とは
ソニーコンピュータサイエンス研究室(ソニーCSL)は2020年に、京都研究室を新設。発足後から研究所職員たちが集える仕切りのないフロアや、ごろ寝ができる畳敷きの“茶室”を設けたことで話題を呼んでいましたが、いよいよホンモノの茶室を構えてしまいました。
ソニーCSLの京都研究室長である暦本純一氏と、共同研究のパートナーであるミリエームの茶美会文化研究所を主宰する伊住禮次朗(いずみ れいじろう)氏が、2月27日に報道陣向けのオンライン記者会見を開催し、新たな茶室の概要と研究テーマについて紹介しました。
新しい茶室「寂隠」(じゃくいん)は、コンピューターによって構築された仮想世界と脳を直結(Jack In:ジャック イン)してリアルとバーチャルを融合するという、米国の作家・William Gibson氏が提唱するコンセプトから命名されたそうです。「市中の山居」という日本古来の茶室の思想に基づいて、ソニーCSLが京都の街中に構えるオフィスにひっそりと建てられました。
寂隠の内装は数寄屋造りがベース。室内の随所にソニーのデジタル技術が採り入れられています。2022年の夏ごろに建て始めた茶室が、今回オープンを迎えたかたちです。基本的にはソニーCSLの研究施設であることから、一般には公開されません。今後、研究成果のお披露目会などイベントの際に訪問できることを願うばかりです。
AIで「お点前」や茶道具を再現、ARで見る
ソニーCSLの茶室では「茶の湯文化」を次の世代に受け継ぐためのさまざまな研究が行われます。ソニーCSLの暦本氏は、ソニーが培ってきたAIやセンシングの技術を人間と一体化して、人間の能力を拡張させるテクノロジーを「ヒューマンオーグメンテーション」として提唱し、関連する研究と技術開発をリードしてきたキーパーソンです。
寂隠の室内には各種センサーと、立体視にも対応するソニーのディスプレイなどのデバイスが配置されます。茶の湯のエキスパートである、伊住氏をはじめとする茶美会文化研究所のメンバーによる「お点前」(おてまえ:茶を点てる技術)の作法を3Dデータとしてキャプチャした後、さまざまなアウトプットの手法を活用して「文化を形に残し、伝承する」ことがプロジェクトの狙いです。
暦本氏は、洗練された茶室を設けて「リアルとバーチャルの融合、コンピューターの技術に寄る自動化と、人間の技の対比を研究していきたい」と意気込みを語りました。
新しい茶室の主な研究開発のテーマは次の3つです。
拡張作法伝承 / Passing Down Manners with Augmentation by JackIn Space
茶室の中に配置された数々のセンサーにより、手もとの繊細な動き、身のこなしなど「身体性」を伴う茶道の作法をキャプチャ。茶室内の空間を時空間的にまるごと3Dデータにした後、これを自由視点で観察できる手段を構築します。
寂隠の天井には複数の深度センサー(4基配置+2基追加可能)が設置され、ほかにも被写体の3D情報を補足するためのリアルタイム3次元センサーもあります。茶室の中にARオブジェクトを配置して、専用のディスプレイで立体視ができる環境も設けるそうです。
プロジェクトの成果は茶の湯の文化を師匠から弟子に残し、偉大な技を次世代に受け継ぐ媒介としての役割を担うことが期待されます。茶の湯の文化を海外に発信することにも大いに貢献しそうです。本テーマの研究には東京大学社会連携講座、凸版印刷もパートナーとして参加を予定しています。
立体茶会記 / 3D Chakaiki (tea ceremony record) by NeARportation
茶会での使用道具類や食事の内容を記録する「茶会記」を、人の手による筆記だけでなく3Dデータで残すという試みです。
茶器の釉薬の斑紋、お茶菓子の色彩や質感など、Neural Radiance Fields(NeRF)と呼ばれる深層学習を用いた自由視点画像生成技術で記録し、半透明な裸眼3Dディスプレイ上に出来る限り忠実に再現するといった、ソニーが誇る映像技術の集大成にもなりそうです。京都の織元である「ふくおか」(フクオカ機業)の協力も得て、西陣織のテキスタイルをAIアルゴリズムによりデザインして、リアルの茶室・茶器の情報と融合させる研究も行われます。
雪見扉/ Yukimi Door by SquamaYukimi
液晶デバイスを活用した茶室のインタラクティブなトビラ「雪見障子」を開発するプロジェクトです。透明度を電気的に制御する液晶調光フィルムを障子に埋め込み、センサーが取得した人の動きや外的環境の情報に合わせて透明度を変えることができます。透明/半透明を切り換えて、茶室への「客の誘導」と「俗世との遮断」を演出するという、見た目や振る舞いがとても刺激的な茶室のIoTデバイスです。
茶の湯文化を次世代につなぐ情報発信にも期待
茶美会文化研究所の伊住氏は、ソニーCSLと共同で展開するプロジェクトへの期待感について、次のように伝えています。
「茶の湯の作法にはリアルな身体動作があり、その中で人と人の関わりが築かれます。デジタルの技術に頼るのではなく、ひとつのツールとして活用することにより、技術を継承するだけでなく新しいことが生み出せるかもしれません。私も今まで、自身が茶室の中でどう動いているか、お客様の視点からはどう見えているかを意識することがなかったように思います。自分の作法を3Dデータで見られるようになれば、自分の中により深く技術を落とし込むことができると思います。師匠と弟子が同じ映像を見ながら繰り返し技術をフィードバックすることで、技術伝承の可能性にも広がりが生まれるのではないかと期待しています」(伊住氏)
茶美会文化研究所は、茶道 裏千家十五代家元・鵬雲斎(ほううんさい)の二男である伊住政和氏が1992年に創設した組織です。同研究所の二代目である伊住禮次朗氏は、「多面的な要素を持つ茶の湯の本質を現代の人々に伝え、伝統の継承と本質の探究を両輪として進めるべき」という考えの下で、文化の持続的発展を追求しています。
ソニーCSLとしては今後、研究の成果はアカデミックな論文や社内外に向けた技術発表などさまざまな形でアウトプットができる、と暦本氏は話しています。茶室で行われる研究をリアルタイムに配信し、アーカイブ化した情報を茶の湯文化の発展のために公開する、といった試みにもぜひ挑戦してもらいたいです。両者による成果が何らかの形で公に発表されることを楽しみにしましょう。