2020年12月19日。1両の路面電車の車両が、長崎から小田原へ「里帰り」を果たした。この車両は、かつて小田原市内で運行されていた箱根登山鉄道軌道線(小田原駅前~箱根板橋間。「市内線」「市内電車」とも呼ばれた。本稿では「路面電車」とする)で活躍し、1956(昭和31)年3月31日の同路線廃止後、長崎電気軌道へ移籍した202号車である。

  • 長崎時代の元箱根登山鉄道軌道線202号車(長崎電気軌道151号車)。このほど64年ぶりに小田原へ「里帰り」を果たした(提供 : 小田原ゆかりの路面電車保存会)

箱根登山鉄道202号車は、1925(大正14)年に王子電気軌道(後の都電荒川線)が新造した、齢95歳の長寿車両だ。1950(昭和25)年に箱根登山鉄道へ移籍し、路面電車の廃止後、長崎電気軌道に移籍。151号車として活躍した。長崎へ移籍した計5両(201~205号車)のうち、現存する車両は202号車の1両のみとなっている。

2019年に長崎で引退した202号車(長崎電気軌道151号車)は廃車・解体される予定だったが、そのことを知った有志が「小田原ゆかりの路面電車保存会」を結成。クラウドファンディング等で車両の輸送・設置等に必要な資金を調達するなどし、じつに64年ぶりとなる小田原への里帰りを実現させたのだ。

  • 「小田原ゆかりの路面電車保存会」会長の小室刀時朗氏と、「旧市内電車のりば」の案内版(筆者撮影)

この202号車が走っていた小田原の路面電車とは、どのような路線だったのだろうか。本稿では、同路線の歴史を振り返りつつ、保存会会長の小室刀時朗氏に案内していただきながら、廃線跡を歩いてみることにする。

■起源は馬車鉄道

小田原の路面電車の歴史は1888(明治21)年、小田原馬車鉄道(国府津~小田原~湯本間)の開業にまでさかのぼる。同時期に国府津から静岡まで延伸された東海道線は、現在の御殿場線経由だったため、鉄道が通らないことで街が衰退することを危惧した小田原と箱根湯本の有力者が発起人となり、この馬車鉄道を設立した。

同鉄道はその後、自前で水力発電所を建設し、1900(明治33)年3月に全線の電化を完了(電化完了に先立ち、小田原電気鉄道に商号変更)した。京都、名古屋、川崎(京急電鉄の前身・大師電気鉄道)に次ぐ、我が国で4番目の電車路線だった。1919(大正8)年6月には、湯本~強羅間の登山鉄道(現・箱根登山鉄道)を開業させた。

1920(大正9)年、省線の熱海線(後の東海道線)国府津~小田原間が開業したことを受け、小田原電気鉄道は重複する国府津~小田原(現・市民会館前バス停付近)間を廃止。同時に省線小田原駅前まで軌道を新設した。その後、関東大震災の被災などによる経営危機を経て経営資本が変わり、1928(昭和3)年に箱根登山鉄道が設立され、小田原~湯本間を走る路面電車は箱根登山鉄道軌道線となった。

1935(昭和10)年、小田原~箱根湯本間の鉄道線が開業したことにより、同じ会社の路線が同じ区間で重複することになったため、軌道線は小田原駅前~箱根板橋間(2.4km)のみに短縮された。これにより、路線が小田原市内(昭和15年の市制施行までは小田原町)で完結することになったため、市内線と呼ばれるようになった。

その後、戦時下での一時的な運転休止などがあったものの、最後まで「収益は好調」(箱根登山鉄道社史)だったという。しかし、戦後の自動車交通量の増大による道路改修を機に、1956(昭和31)年5月31日に廃止された。

■小田原市街を抜けて

では、小田原駅前から箱根板橋まで、路面電車の廃線跡を実際に歩いてみることにしよう。

まずは小田原駅前の乗り場から歩き始めたいところだが、場所はどこだったのだろうか。小田原駅東口の商業施設「トザンイースト」(旧・箱根登山デパート)1階の搬入車専用駐車場の脇に立っている「旧市内電車のりば」の案内版はすぐに見つけることができた。しかし小室氏によれば、この位置に乗り場があったのは、廃止直前のほんの1~2年間のことであり、それ以前はもっと国鉄(現・JR)駅寄りの場所、現在は箱根登山バス、伊豆箱根バスの案内所になっているビルの位置に乗り場があったという。1954(昭和29)~1955(昭和30)年度に行われた小田原駅前整備拡張工事(昭和30年10月13日竣工)に伴い、乗り場が変更されたのだ。

  • 小田原駅前の市内電車乗り場(現・トザンイースト)。営業最終日には「電車まつり」が行われ、こどもは運賃が無料になった(提供 : 小田原市)

  • 小田原駅前を出発した202号車(提供 : 小田原ゆかりの路面電車保存会)

  • 緑町付近を走行する202号車(提供 : 箱根登山鉄道)

駅前を出発した路面電車は、バス通りを道なりに進み、最初の停留所「緑町」に停車。現在、付近には同名のバス停が設置されている。緑町といえば、伊豆箱根鉄道大雄山線にも緑町駅があるが、直線距離で500mほど離れている。調べてみると、1889(明治22)年に十字町・幸町・緑町・万年町・新玉町が合併して小田原町が誕生。その後、1966(昭和41)年に市内の町名変更が行われるまで、ともに緑町だったという経緯があった。現在の地名では、大雄山線の緑町駅は栄町3丁目、緑町バス停は栄町1丁目となっている。

この先にある郵便局と平井書店は、路面電車が走っていた当時から場所が変わっていないので、昔の写真を見るときの目印になる。さらに少し先、現在の市民会館の場所は、かつて市役所だった。市民会館前で国道1号と合流するが、1920(大正9)年に国府津~小田原間が廃止される以前は、ここから国府津駅前まで国道上を路面電車が走っていた。

  • 道路の左は建て替えられた中央郵便局、右は平井書店(提供 : 小田原ゆかりの路面電車保存会)

  • 市役所(現・市民会館)の道路を挟んで向かい側の趣ある建物は横浜銀行の前身・横浜興信銀行(現在は中央労働金庫)。その前を通過する202号車(提供 : 箱根登山鉄道)

  • 現在の中央労働金庫(ろうきん)小田原支店前(筆者撮影)

  • 営業最終日に幸町ですれ違う花電車(提供 : 小田原ゆかりの路面電車保存会)

市民会館の少し先に「幸町」というバス停があるが、この場所は小田原の路面電車にとって、非常に重要な場所だった。ここにはかつて、小田原電気鉄道の本社と車庫があった。また、単線である同路線の交換(すれ違い)場所でもあった。ちなみに、小田原駅前~箱根板橋間において、交換場所は幸町と早川口の2か所に設けられていた。

本社前を過ぎると、国道1号は本町交差点で直角に右折する。この付近は停留所の間隔がきわめて短く、わずか300mほどの間に「小伊勢屋前」「御幸浜」「幸三丁目」「箱根口」と、4つもの停留所が設けられていたようである。箱根口の道路右手には、まるで城のような建物があるが、これは神奈川県下で最古の商家とされ、製薬・製菓を営む「ういろう」本店である。店舗内に大正時代の路面電車のジオラマが展示されているので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。

■早川口には軽便鉄道の駅が

箱根口の交差点を過ぎたら、左手に目を向けてみよう。観光活性化と地域コミュニティの形成拠点「箱根口ガレージ報徳広場」(2021年2月下旬オープン予定)の敷地内に、長崎から里帰りした202号車が設置されていることに気づくだろう(施設オープンまでの間、ブルーシートに覆われている)。今回のプロジェクトでは、車両保存場所の選定に難航したが、「かつて路面電車が走っていた国道1号に面する箱根口交差点付近に保存場所を確保できたことの意義は大きい」と保存会関係者は話す。

  • 台車と車体(ボディ)を別トレーラーに積載し、長崎から全行程陸送されてきた202号車(筆者撮影)

  • クレーンによる202号車設置作業の様子(筆者撮影)

  • 人車鉄道・軽便鉄道小田原駅跡の石碑(筆者撮影)

さて、先へ進もう。箱根口から400mほど先、早川口バス停付近の歩道橋たもとに「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」と彫られた石柱が立っているのを見逃さないようにしたい。ここは小田原と熱海を結んだ軽便鉄道の小田原側の始発駅跡であり、国府津から路面電車に揺られてきた客のうち熱海へ向かう人々は、この場所で軽便鉄道に乗り換えていた。