フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


1通の電報

終戦翌年の1946年 (昭和21) 4月、兵庫県明石に住まいながら大阪のネジ工場の再建に取り組んでいた森澤信夫のもとに、1通の電報が届いた。[注1] 見ると、「至急 お会いしたい 上京されたし」というような文面。東京・大塚に写真植字機研究所を構えていた石井茂吉からの電報だった。

行きちがいの数々から不信感に耐えられなくなり、1933年 (昭和8) 春に東京の茂吉のもとを去ってから十数年。信夫は写植機から離れ、大阪でネジ製造業を営んでいた。茂吉とは時折やりとりを続けていたものの、あらたまって上京を請う連絡に、信夫は直感的に「これはなにかむずかしいことが潜んでいるな」とおもいながら、東京に向かった。

大塚の写真植字機研究所をたずねると、茂吉は広々とした工場の焼け跡に畑を耕し、イモや野菜を育てながら、バラック小屋で暮らしていた。工場を失った茂吉は、写植機製造の目処も立たず、百姓仕事に身を費やす日々を送っていたのだった。

「森澤くん、よく来てくれたね」
かけつけた信夫に、茂吉は一通の書類を広げて見せた。それは理研が茂吉に提示した契約書で、あとは捺印するばかりの状態だった。読むと、茂吉がこれまでの特許権と研究成果をすべて理研に提供すること、その製造権の譲渡額、茂吉を年俸なにがしで雇用するといったことが記されていた。[注2]

茂吉は言った。
「これでは、私は一介の職員扱いだ。こんな条件では応じられない。森澤くん、なんとか力を貸してくれないだろうか」
しかし信夫にしてみれば筋ちがいである。
「いまさらこんなことで、私を引き合いに出す筋合いではないではないですか。そこまで話が進んでいるのであれば、調印するなり、不満であればやめるなりすればどうですか」

茂吉は答える。
「調印するにしても、私は理研の柏崎工場に行くことはできない。森澤くん、すまないが、行って仕事をしてくれないか」
「いやいや、私は大阪にネジ工場を抱えているんです。そんなことを言われても、行くわけにはいきません」
「それでは、理研がもう一度条件を再考してくれるよう、佐久間さんのところに一緒に行って、お願いしてくれないか」
茂吉は、写植機のためになんとか力を貸してほしいと粘る。

そばで話を聞いていた石井夫人・いくも「このままではお父さんがかわいそうです。おじさん、もう一度佐久間さんに頼んでくれませんか」と信夫に言う。いくは信夫が茂吉とともに写植機開発に取り組んでいたころから、信夫のことを「おじさん」と呼び、親しんでいた。

ここまで頼まれてはしかたがない。信夫は茂吉とともに小雨の降る神楽坂をのぼり、二十騎町にあった大日本印刷社長・佐久間長吉郎の家をたずねた。

  • 当時、大日本印刷の取締役社長だった佐久間長吉郎(秀英舎 編『株式会社秀英舎沿革誌』秀英舎、1922 国立国会図書館デジタルコレクション <a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/14435116">https://dl.ndl.go.jp/pid/14435116</a> 参照 2025-12-30)

    当時、大日本印刷の取締役社長だった佐久間長吉郎(秀英舎 編『株式会社秀英舎沿革誌』秀英舎、1922 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14435116 参照 2025-12-30)

ふたりが着くと、佐久間は風邪気味で寝ていた。茂吉はその枕元で切り出した。

「佐久間さん、いろいろご心配をおかけしましたが、理研からこんな契約書が参りました。しかしこの条件では石井がかわいそうだと森澤くんが言うのです。もう一度、佐久間さんのお力で、条件を見直してもらうよう頼んでいただけませんか」

信夫はおどろいた。自分の言いたいことを信夫にかぶせる言い方ではないか。しかし茂吉は理研から打診があって以来ずっと、旧知の仲である佐久間や加茂の話を無下に断ることができず悩んでいた。「信夫がこう言っている」と伝えることで、なんとか自分の意を伝えたのではないか。そして信夫も内心、理研との契約書に調印することは反対だった。条件の良し悪しではなく、大きな会社におんぶすることで、茂吉が20数年苦心してここまでにしたものをそのうち理研に持っていかれてしまうのは、火を見るより明らかだと感じたからだ。[注3]

話を聞いて、佐久間は「わかりました」と加茂教授にその旨を電話した。しかし結局、理研は条件を変えなかった。佐久間は、「おふたりが写真植字機製造にふたたび取り組むのであれば、全面委嘱ではなくタイアップではどうですか」ともすすめてくれたが、茂吉はそれも断った。[注4]

必死の泊まりこみ

茂吉とともに佐久間を訪ねたあと、理研の条件の見直しがすぐにまとまるとはおもえなかったので、信夫は一度明石に戻ることにした。すると、大塚駅に向かう道すがら、いくがついてきて、「おじさん、もう一度写植機製作に立ち上がってくれませんか。このままでは、私たち一家が途方に暮れてしまいます」と延々信夫を口説きつづけた。

それでもようやく信夫が明石に帰宅して数日経ったころ、今度はいくが明石にまでやってきた。
「おじさんが『うん』と言ってくれるまで、当分ここに置いてもらいたい」
そうして森澤家に泊まりこみはじめたのだ。

  • 森澤の家の近くにあった兵庫県明石市の柿本神社 (2023年1月19日撮影)

    森澤の家の近くにあった兵庫県明石市の柿本神社 (2023年1月19日撮影)

信夫はかんがえた。茂吉とは、昔のよしみもある。第一、写真植字機は自分の発明した “愛児” のような機械だ。いま、その運命にかかわる出来事が起きている。瀬戸際に立たされた茂吉を助けるべきか否か。信夫とて、いまはネジ工場を経営している身なのだ。彼は迷いに迷った。

いくが泊まりこみはじめて1週間ほどが経った。ついに信夫は意を決し、「そんなに言うのなら、条件はあるが、引き受けよう」といくに伝えた。

それを聞いた茂吉が、早速やってきた。
「条件とはなんだろう」
信夫はあらためて茂吉に伝えた。
「私が機械を製造するから、あなたは慣れている文字盤とレンズを見てくれるという条件なら、引き受けてもよいでしょう」

実のところ、信夫に電報を打ったときから、茂吉は心のどこかでずっと「森澤くんが製造を助けてくれたら」とおもっていた。[注5] 茂吉の望んでいた返事を、信夫はくれたのだ。それでもなお、茂吉は即答を避けて、いったん東京に戻った。

1週間後、茂吉は信夫に連絡をした。
「森澤くんの提示した条件でよいから、なんとか写植機製造の再開を図ってくれ」

1933年 (昭和8) に別々の道を歩みはじめて13年。茂吉と信夫のふたりは、ふたたび手をつなぐことになった。[注6]

(つづく)

※本連載は隔週更新となります。
 次は3月17日更新予定です。

[注1] 森澤信夫が石井茂吉から電報を受け取った時期については、本連載 第79回 https://news.mynavi.jp/article/syasyokuki-79/ 注5を参照。

[注2] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.143 には〈石井茂吉およびその子息圭吉を、年俸なにがしで雇用すると書いてある〉とあるが、写研による資料である『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.173に〈理研は圭吉の社員採用をしぶった〉とあるので、ここではその部分は省いた。

[注3] [注4] [注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.175

[注6] この回は全般的に、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.142-145、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.174-175を資料として執筆した。

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影