フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
採字能率のよい文字配列
1929年 (昭和4) 秋に完成した「実用第1号機文字盤」以降の忘れてはならない特徴に、文字の配列がある。茂吉と信夫がつくった写真植字機のおおきな特徴となった文字の配列方法が、このときの文字盤で採用されたのだ。「一寸ノ巾 (いっすんのはば) 」方式という方法だった。[注1]
写真植字機の「試作第1号機文字盤」では、和文タイプライターの音訓順配列を採用していた。[注2] このころ、漢字の配列方法には部首別画引き配列 (康煕字典式) 、音訓配列 (いろは順・あいうえお順) 、総画配列などがあり、活版印刷所の活字棚では部首別がもちいられていた。こうした配列を身につけて効率的に文字を探し出すには、習熟にかなりの時間が必要だった。 [注3]
「もっと簡単に覚えられて、採字能力の上がる配列が必要なのではないか」
茂吉はそうかんがえていた。
このころ、漢字索引の不便さを解消するためのあたらしい配列方法が研究され、いくつか発表されていた。四隅数字化配列 (考案:王雲五 / 中国) 、面線点計数配列 (考案:張鳳 / 中国) 、起筆配列 (考案:九鬼栄助・丘襄二と、清藤幸七郎の2種類) ……。そうした新配列法のなかから茂吉が選んだのは、種田豊馬考案の「一寸ノ巾」式配列だった。[注4]
見た目のかたちで探せる方法
種田豊馬は三菱造船研究所において、和文タイプライターの文字配列を研究していたひとだった。「一寸ノ巾」式配列は、日本学者のロシア人ローゼンベルク (1888-1919) [注5]の「五段配列」に影響を受けて、種田が大正末に考案した配列法だ。[注6] ローゼンベルクは大正時代に来日して漢字と仏教の研究に従事し、日本語を学習する外国人に漢字を解説した字典『五段排列漢字典』(1916) を刊行していた。
「一寸ノ巾」式配列では、まず基本見出し文字を偏旁冠脚など字形の一定部分にある文字の要素で51種に整理し (部首別は240種) 、これを語呂の順にならべる。基本見出しのおぼえかたは、つぎのとおりだ。
「一寸の巾、鍋蓋 (なべぶた) 進入は匣 (はこ) がまえ、刀抜く人、雁 (かり) は山さと、大小の女子、口言い心に手、弓と片ほこ、四つ目糸草、虫の羽 竹の里、シンシャキュウモン、犬の足 馬の骨、日月火水木金土」
さらに、各基本見出しに付随する数個の小見出しを設けており、その見出しのなかに収める文字を、扁やつくりなど、独自の字形で分類していた。[注7] これによって、漢字が読めなくても、見た目のかたちで採字ができるというのが「一寸ノ巾」方式だった。
種田は、「『一寸ノ巾』式文字排列文選作業」と題して、三菱長崎造船所印刷工場の活版印刷場で五号活字約6,000種を「一寸ノ巾」式配列で活字棚に並べ、文選 (原稿に従って棚から活字を拾うこと) の経験がない17、8歳の女子の文選成績の記録をとった結果を『印刷雑誌』昭和3年5月号 (1928) に発表している。結果、77日、つまり約2カ月半の練習で1分間の文選率が29.2字に及んだ。参考までに、彼女が練習21日目に1分間で文選できたのは10.3字だった。工場長の藤井富蔵は後日、種田への手紙につぎのように綴ったという。
「私どもは多年、従来の (活字棚の部首別配列) 式をたいへん不便と感じていた。ことに、はじめて文選にとりくむ人に、それがどの部首に属する文字なのかを教えることがとても大変だった。しかし、種田氏の『一寸ノ巾』式を導入したことで、まったく経験のない女子もすぐに文選が身についたのは、まったく字義字源を使用せず、ただ文字の形態によって目的の字をただちに探し出す方法を考案してくださったから」「『一寸ノ巾』式によれば、小学校を完全に出ていなくても3カ月ぐらいで文選が身につき、6カ月も経てばほとんど一人前の文選工になれるようなしくみに配列してある」[注8]
こうした調査結果なども見ていたのだろう。茂吉は、日常で使われる機械には「一寸ノ巾」式がもっとも簡単に覚えられて採字能率の上がる配列だとかんがえ、「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体)」(1929年) からはこの配列をとりいれた。[注9]
割れる意見
問題となったのは、文字盤に収容する文字を何文字にするかということだった。「試作第1号機文字盤」では約3,000字をおさめていた。 [注10] 5つの印刷会社に納入予定の「実用第1号機文字盤 (仮作明朝体)」では、文字数をどうするか。茂吉と信夫、ふたりの意見は割れた。
信夫は、「今後、漢字の数はしだいに制限されていくだろう」とかんがえた。だから「文字盤の収容文字数も、なるべくなら少ないほうがよい。そのほうが、オペレーターが文字盤を移動させる距離の積算量が少なくて済み、採字能率があがるだろう」とかんがえたのだ。対する茂吉は「なるべくなら多数の文字を収容する方針をとりたい」と言い、そのかんがえを決してゆずらなかった。[注11]
茂吉は結局、収容する文字数を5,460字と決めた。もちろん、根拠なく決める茂吉ではない。活版印刷所の活字ケースの調査や、漢字にかんする研究資料をあたった。最終的には、日下部重太郎『実用漢字の根本研究』のつぎの所説にしたがった。[注12]
〈なほ明治五年の頃文部省が、常用漢字を三千ばかりに節減しようと企てた事があり、同十九年の頃郵便報知新聞が漢字を常用のもの三千に節減した「三千字字引」があり、中村正直博士の「三千字文」などもある。蓋し、三千とは、我が国民の常用漢字のミニマム (最小限) に近いもので、六千とは、そのマキシマム (最大限) に近いものである。ミニマムは不足を生じがちであり、マキシマムは常用を充し得るものである〉[注13]
茂吉は、文字盤に収容する文字数を5,460字に決めた。そして、従来の「試作第1号機文字盤」のような1枚の大きな文字盤では扱いにくかったため、縦65mm、横105mmの小型文字盤に分割し、それを格子状につくった文字枠に収容することにした。1枚の小型文字盤には縦13字×21字の273字を収容することとし、5,460字を使用頻度の高いものから一級文字盤 1枚(273字) 、二級文字盤8枚 (2,184字) 、三級文字盤11枚 (3,003字) に分けた。そして、もっとも採字しやすい文字枠の中央に一級文字盤を置き、その上下左右に星型に他の文字盤を配置した。[注14]
こうして「一寸ノ巾」式配列をとりいれたことは写真植字機の大きな特徴となり、採字能率を大幅に向上させることにつながった。なお、考案者の種田豊馬はこの配列方法を活版印刷の現場に普及させようとしたが、明治のはじめから部首別配列で訓練されてきた活版印刷所で、棚の配列方式を刷新することは、文選工のノウハウをくつがえし現場の混乱を招くとの理由から、活版印刷所ではけっきょく普及しなかった。しかし、まったくあたらしい植字法として登場した写真植字機には、かえって根付いていったのだった。[注15]
(つづく)
出版社募集
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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com
[注1] 「写真植字機いよいよ実用となる」『印刷雑誌』昭和4年9月号、印刷雑誌社、1929.9 p.3
[注2]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.14
[注3]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.105
[注4]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.105
[注5] 小林潔「ロシア人日本学者ローゼンベルク」『Japanese Slavic and East European studies』24、Japanese Society for Slavic and East European Studies、2004 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/10776176 2024年6月12日参照)
[注6] [注7]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18
[注8] 種田豊馬「『一寸ノ巾』式文字排列文選作業」『印刷雑誌』昭和3年5月号、印刷雑誌社、1928.5 pp.33-36
[注9]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.105
[注10]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18
[注11] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.117
[注12]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18
[注13] 日下部重太郎『実用漢字の根本研究』大日本図書、1920 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/930994 2024年6月12日参照) p.64
[注14]「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.18、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.105-106
[注15] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.117-118
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
布施茂『技術者たちの挑戦 写真植字機技術史』創英社発行、三省堂書店発売、2016
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
「書体設計者はパイオニアの精神で……」『季刊プリント1』印刷出版研究所、1962.3
日下部重太郎『実用漢字の根本研究』大日本図書、1920 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/930994 2024年6月12日参照)
王雲五著ほか『漢字ノ四隅番号化検字法 : 附・検字一覧表』間宮商店、1930 p.22 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1147838 2024年6月22日参照)
「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926
種田豊馬「『一寸ノ巾』式文字排列文選作業」『印刷雑誌』昭和3年5月号、印刷雑誌社、1928.5 pp.33-36
「写真植字機械いよいよ実用となる」『印刷雑誌』昭和4年9月号、印刷雑誌社、1929.9
倭草生「写真植字機の大発明完成す」『実業之日本』昭和6年10月号、実業之日本社、1931
「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』1935年5月号、印刷雑誌社、1935.5
「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』第32巻第2号、印刷学会出版部、1948
中垣信夫連載対談「印刷と印刷の彼岸 第7回=写真植字の周辺 ゲスト:石井裕子」『デザイン』no.11 1979年5月号、美術出版社、1979
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ