フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


助手と机を並べて

東京帝大の谷安正助教授考案による計算方式で、邦文写真植字機用レンズの計算が始まった。詳細な時期は不明だが、1926年 ( 大正15 ) はじめ~春ごろのことだろうか。試作第2号機製作中のできごととおもわれる。谷が紹介してくれた助手の柴田久三が計算にあたった。

柴田には、複雑な計算に日々取り組んでもらわなくてはならない。茂吉はまだ東京物理学校 ( 現・東京理科大学 ) の学生だった柴田を自宅の2階に住まわせた。柴田は茂吉を「先生」と呼んだ。本人曰く〈 富山県の山奥から大東京市に出てきたいなか青年 〉から見れば、東京帝国大学出身で神戸製鋼所と星製薬で高級技師をつとめ、いまは未知の発明に取り組む茂吉は、偉大な存在だったろう。後年、柴田が〈 先生の奥さまや石井家の皆さまに親身も及ばぬお世話になり 〉と書いていることからも、彼は茂吉と同じ屋根の下で、寝食をともにしていたことがうかがえる。[注1]

  • 【茂吉と信夫】はてなきレンズ計算

    写真植字機研究所の工場と、石井茂吉の自宅兼研究室の近くだった堀船の白山神社 (東京都北区/2023年4月2日撮影)

計算は単調で、しかし量は膨大だった。念入りにおこなってもミスの起きうる仕事だが、まちがいは絶対にゆるされない。しばらく進んだところで、柴田の出す数値につじつまの合わない部分が出てきた。茂吉がチェックしてみると、途中で誤りのあったことがわかった。

そこで茂吉は、柴田と机を並べることにした。ともに同じ計算をおこない、出た数値をたがいに照合して記入しながら進むことで、ミスを防ごうと考えたのだ。ふたりは朝から晩まで計算に明け暮れた。

数か月から半年ほど経ったころだろうか。[注2] いっこうに目的に達する気配を見せない状況に、「はたしてこの計算方法でよいのだろうか。これが最上の方法なのだろうか? もっと早く計算できる方法はないものか」という疑問が茂吉のなかに生じはじめた。

そうなっては、いてもたってもいられないのが茂吉である。日本橋 ( 東京 ) の書店・丸善 [注3] におもむいてレンズ設計に関連する専門書の原書をかたっぱしから購入し、我を忘れて読みはじめた。東京帝大の谷助教授のもとにも何度も足をはこんで、質問と相談を重ねた。助手の柴田をともなって、上野の帝国図書館 ( 現・国立国会図書館国際子ども図書館 ) [注4] や大橋図書館 [注5] 、東京帝大の図書館にもたびたび出かけた。「先生は何ものかにとりつかれたようだった」と柴田は語る。 [注6]

東京帝大の谷のもとに行くと、茂吉はしばしば、谷を紹介してくれた旧知の友人・野口のもとにも忙しそうな姿を見せた。話題といえば邦文写真植字機のことで、その様子は野口には〈 家庭のことも自分自身のことも、まるで念頭にないような印象 〉に見えた。 [注7]

原書を1冊読んではかんがえ、かんがえては次の1冊をひらく。茂吉はいつも自宅の2階で机に向かって目をつぶったりひらいたり、頭をかかえたりしながら、四六時中、レンズの計算について思考をめぐらせた。のちに茂吉自身が語っているが、まさに無我夢中、死にものぐるいの様相だった。 [注8]

原書を次々と読破するうちに、茂吉は、レンズ設計のやり方は本によって異なり、さまざまな方式があることを知った。10数冊を読み終えたころには、レンズに関して茂吉は専門家の領域に入っていた。試作第1号機の完成後に「レンズをなんとかしなくては」と動きはじめてから、すでに1年の月日が流れていた。

茂吉は、早道を見つけた。谷が考案してくれた計算式よりも簡単な計算式を自分で導き出した。「この方法のほうが確実で、おそらく数倍早い」茂吉はそうおもった。しかし、確信にまではいたらなかった。そこで東京帝大の谷の研究室をおとずれ、みずから考案した計算方式について話した。裏付けがほしかったのだ。

ところが谷の反応は、茂吉の予想外のものだった。持参した書類を手に取ろうともせず、彼は言い放った。

「あなたがその方法がよいとおもったのなら、それでやってみたらどうですか。ぼくはぼくの方法がよいとおもったから申し上げたまでです」

反発するような谷の反応に、茂吉はあっけにとられた。自分は、道をひらいてくれた谷の気持ちもかんがえず、失礼なことをしてしまったのだろうか。

帰宅した茂吉は、もう一度じっくり計算方法を検討した。自分の計算方式のほうが簡単で早いという結論は変わらなかった。茂吉は腹を決めた。石井方式に切り替え、助手の柴田とふたりで、あらためて計算に取り組みはじめた。 [注9]

考えられることはすべて

茂吉は自宅の2階で柴田と机を並べ、青い細線を引いた用紙上にたがいの答えを記入して誤算が起こらないようにしながら、以前にも増して細心の注意を払い、慎重に計算を進めた。昼夜を問わず机に向かい、ともに計算に取り組む柴田が〈 ( 先生は ) ほとんど帯を解いておやすみになったことはなかったのではないか 〉というほどに茂吉は研究に熱中した。 [注10] 冬には、凍てつきそうな星空のもと、あまりの寒さに手がかじかみ、握っていた鉛筆をポロッと落とすことも再三ならずあった。 [注11] 床につくのは毎日、深夜2時、3時だった。

最初に計算にかかり始めてから2年ほど経つと、柴田もだいぶ計算が早くなってきた。そこで茂吉は時おり、柴田に計算競争を持ちかけた。結果はいつも柴田の負けだった。

〈 先生はいつ計算方法など考えられるのか ( 参考書はわたしにもよく読ませてくださいましたが、先生は徹夜で読まれ、四六時中考えておいでだったものと思っております ) まったく神わざのようでした 〉と柴田は語る。[注12]

写真植字機用のレンズは、多くの条件を満たすために、計算にいくつもの変数が入ってくる複雑なものだった。当時、3つ以上の未知数に関する連立方程式の一般的解法は存在していなかったという。そんななかで茂吉は、独創的な特殊解法をみずから編み出し、柴田に教えた。

「考えられることはすべて考えよ」

それが、柴田にくりかえし伝えた茂吉の教えだった。

(つづく)


[注1] 柴田久三「石井先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.91-94

[注2] 上記、柴田の記述および『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.96には「半年」とある。いっぽう、橘弘一郎による石井茂吉へのインタビュー「対談第9回 書体設計に菊池寛賞 株/写真植字機研究所 石井茂吉氏に聞く」『印刷界』1961年10月号、日本印刷新聞社 では、石井は「二ヵ月、三ヵ月たったがなかなかできない」と話している。また、試作第2号機を東京高等工芸学校で発表した直後の『印刷雑誌』1926年 ( 大正15 ) 11月号に掲載された記事「邦文写真植字機遂に完成」には、〈 石井氏と助手とが専ら計算に当られたが、かくして計算の出来上ったのは、漸く本年七月に入ってからであるといふ。そこでただちに、日本光学工業会社へレンズ製作方を依頼する運びとなったのであるが、現在製作中の機械 ( 雪注:試作第2号機のあとに着手した実用機のことか ) は、そのレンズを使用したものであるから、完全と思ってよい 〉の記述がある( p.10 )。1926年7月にできあがった計算とは、谷方式での計算のことだろうか。

[注3] 1926年 ( 大正15 ) 当時、東京都内の丸善は日本橋店のみ。丸善ジュンク堂書店サイト「経営理念・沿革」 https://www.maruzenjunkudo.co.jp/philosophy_history/ ( 2023年10月29日参照 )

[注4] 国立国会図書館国際子ども図書館サイト「あゆみ」 https://www.kodomo.go.jp/about/outline/history.html 、「建物の歴史」 https://www.kodomo.go.jp/about/building/history/index.html ( 2023年10月29日参照 )

[注5] 博文館 ( 現・共同印刷 ) の創業者大橋佐平の遺志を引き継ぎ、息子の大橋新太郎が1902年( 明治35 )、東京・麹町区上六番町 ( 現在の千代田区三番町 ) にひらいた私立図書館。都道府県立の規模を有し、公共図書館としての役割を担っていた。1923年 ( 大正14 ) 9月に関東大震災で焼失したが、1926年 ( 大正15 ) に九段坂下飯田町1丁目 ( 現在の千代田区九段南1丁目 ) に開館。茂吉たちがおとずれたのはここだろう。1953年 ( 昭和28 ) 閉館し、蔵書は西武鉄道創設者の堤康次郎に引き継がれる。1957年 ( 昭和32 )、三康図書館として発足 ( 東京都港区芝公園 )。現在に至る。

[注6] 柴田久三「石井先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.92

[注7] 野口尚一「石井君と写真植字機」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.137

[注8] 「発明」編集室編「本邦印刷界に大革命を招来する 『写真印字機』の発明者 石井茂吉君に聴く」『発明』1933年12月号、帝国発明協会 p.68

[注9] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.96-97

[注10] 柴田久三「石井先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.93

[注11]「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』1948年2月号、印刷学会出版部 p.24

[注12] 柴田久三「石井先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.92-93

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000
「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926
「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』1948年2月号、印刷学会出版部
「発明」編集室編「本邦印刷界に大革命を招来する 『写真印字機』の発明者 石井茂吉君に聴く」『発明』1933年12月号、帝国発明協会
橘弘一郎「対談第9回 書体設計に菊池寛賞 株/写真植字機研究所 石井茂吉氏に聞く」『印刷界』1961年10月号、日本印刷新聞社

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影