世界最初の「電子計算機」は、何かという問いの答えは2つある。1つは技術的に見た場合で、それは人口に膾炙したENIAC(1946年)である。もう1つは、米国の司法判断(判例。1973年)であり、ABC(Atanasoff-Berry Computer。1942年)がENIACに先行する計算機械であり、ENIACはABCの技術を利用しており、ABCの延長上にある計算機械であるとした。
ENIACの開発者であるエッカートとモークリーが取得した特許は、スペリー社の所有となっていたが、この判決により、ライセンス料を徴収することができなくなった。このために、メインフレームメーカーは、自由にコンピュータの開発が可能となった。
判例が出たのが1973であり、ENIACは、すでに「世界初のコンピュータ」として喧伝されていたため、多くの出版物では、ENIACを世界最初のコンピュータとするものが多い。ABCについては、1980年台後半に書籍などが出版され、ようやく一般の認知するところになった。しかし、時すでに遅し、世界初のコンピュータに関しては、ENIACだと一般には認知され、ABCに関しては、知る人ぞ知る、ものにしかならなかった。
アタナソフは、ABCで現在のコンピュータの原型となる技術を開発した。1つは、真空管によるスイッチングを利用した「デジタル回路」の開発である。さらに「2進数」を計算対象としたこと、「ブール演算により数値計算」を行う回路を作り、一定の手順で処理を自動的に行う「自動計算」の導入、「演算部と記憶装置を分離」したこと、などである。
ただし、開発されたABC自体は、29元の線形方程式を解くことしかできないものの、複数の演算を自動で適用していくことができた。1941年に動作していたABCは、現在でいえばプロセッサの大部分を電子的に実現していたことになる。
また、ABCが利用していたメモリは、原理的には、現在のD-RAMと同じく、コンデンサに電荷を溜めることで、0、1を記録できるもの。このメモリと演算部分を完全に分離することもABCが電子計算機械として最初に行った。
この裁判は、ENIAC特許を持つスペリー社(UNIVAC)に対して、ハネウェル社が特許無効の訴えを起こしたもの。結論からいうと、モークリーは、1941年にABCの開発者であるアタナソフと合い、動作しているABCを見て、さまざまな質問を行い、ABCのドキュメントにも目を通したという。このため、モークリーは、5日間もアイオワのアタナソフ家に滞在したという。
そして、モークリーは、この訪問以前に「デジタル計算機」に関する着想を得ていたという証拠がなく、ENIACに関する記録は、すべてこの滞在以降のものでしかなかった。このため、ABCを参考にENIACを考えたと判断することが妥当だと判断された。ABCという先行例があり、それを元にENIACを開発したため、特許は無効であると判断されたわけだ。
そういうわけで、プログラミング機能はないものの、「デジタル計算装置」と断言できるABCが、ENIACの親に当たるならば、世界最初のコンピュータとしてもいいのではないか、という意見を持つ人がいる。反面、プログラミングができてこそコンピュータであると考える人もいる。機械式計算機の時代にすでにプログラミングの概念は存在しており、どんな形(ENIACはユニット間の配線変更などによりプログラミングに対応していた)であるにせよプログラミングが可能であることは必要条件とする人は少なくない。
フォン・ノイマンに次期マシンの開発会議途中のレポートの「草稿」を作られ、プログラム内蔵方式はノイマンの成果にされてしまう。筆者としては、特許も無効になったモークリーにとって、世界最初のコンピュータを作ったという「名誉」だけは残していいのではないか。その反面、ほとんど顧みられなかったアタナソフの業績も評価すべきという気持ちがある。
今回のタイトルネタは、アガサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie)の「ABC殺人事件」(原題The ABC Murders,1936)である。アタナソフ(John Vincent Atanasoff)は、指導していた大学院生の(Clifford Edward Berry)を助手としてENIACに比べればわずかな金額でマシンを試作した。これには名前がなかったため、裁判などでは便宜的にAtanasoff-Berry Computerと呼ばれ、略してABCとされた。クリスティの作品の方は、評価も高いが、オリエント急行殺人事件、そして誰もいなくなった、ほどの人気がない。映画は1作のみ、テレビではデヴィット・スーシェのポアロシリーズには入っているが、それ以外は「変化球」的なものが多い。
