前々回、視力1.0の人が5m先のものを見た場合、目の解像能力は17.52ppi程度になるということを、視力検査のランドルト環から計算した。これを基準にすると、現在のフルHDテレビはすでに人間の目の解像能力を超えたきめ細かさをもっていて、これ以上高精細の4Kテレビなどは意味がないように思える。ただし、この前提になっていたのが「テレビを2.5m程度離れたところから見る」ということだった。
しかし、テレビの「適切な視聴距離」というのは「画面の縦の3倍」となっていて、40V型では1.5m、50V型では1.85mになる。これは生活感覚からはあまりにも短い距離で、筆者はこの距離で視聴して軽くめまいを起こしかけたと、前回説明した。メーカーが謳っている適切な視聴距離は「画面の縦の長さに対して3倍」なのだが、実際の生活感覚から考えれば、そのさらに2倍くらいを確保したほうが良いのではという指摘も行った。
現行のハイビジョンは「臨場感」が基準
実は、この視聴距離に対するメーカーと消費者の考え方のズレが、さまざまなミスマッチを生じさせているのだ。例えば、筆者が今論じている「4Kテレビは必要か」という問題も、3倍の視聴距離ではテレビの解像度は人間の目の解像度以下であり、メーカーは「より高精細のテレビが必要」と考える。しかし、5倍の視聴距離ではテレビの解像度はすでに人間の目の解像度を超えていて、消費者は「今のフルHDテレビで十分」と考える。
現在のハイビジョンの規格は、元々はアナログテレビの時代にNHKが開発したものだ。このアナログハイビジョンがベースになって、現在のデジタルハイビジョンの規格が定められている。では、NHKはどのような考え方で、画面の縦横比、解像度などのハイビジョン規格を決めたのだろうか。
そのキーワードは「臨場感」。どのような規格の映像であれば、人間は臨場感を感じてくれるだろうかというのが研究のテーマだった。
この臨場感の秘密を調べるために、NHKでは半円形の投影モニターを作成した。被験者は半円形のお椀のような形のモニターに顔を半ば突っこみ、表示される映像を見る。そして、映像に対して身体がどう反応するかを確かめたのだ。面白いのは地平線のはっきりした風景を映して、この映像を傾けてみる。被験者が臨場感を感じているときは、自然に頭や身体を傾けてしまう。臨場感を感じていないときは、頭や身体は動かない。こうして、どの程度の視野を覆えばいいのか、どの程度の解像度にすればいいのかを調べていったのだ。それで策定された規格が、現在のハイビジョン規格なのである。
つまり、ハイビジョン規格というのは「臨場感のある映像を感じるため」の規格で、画面の縦の長さに対して3倍という、極めて近い距離から見るのも、臨場感を感じるにはそのぐらい近づいて、画面が視野を覆う必要があるという理由からだ。これは映像を楽しむための考え方としては一見正しい。しかし、テレビはそのような設計をするべきものなのだろうか?
娯楽機器としてのテレビと生活に密着した機器としてのテレビ
テレビというのはかなりの長時間使う家電製品だ。テレビの視聴時間は、30代で1日2時間程度だが、60代あたりから急に増え、70代では5時間を超える。また、視聴時間以外にも、テレビを点けながら家事をするということも多いだろう。見るとはなく見ている時間も含めると、トータルで6時間以上になっているのではないか。
もし、ハイビジョン規格のコンセプト通り「視野を覆いつくして、臨場感たっぷり」という視聴スタイルを5時間も6時間も続けたら、身体に何らかの悪影響を及ぼすのではと心配したくもなるものだ。遊園地の回転式ジェットコースターだって、1回や2回乗る分には楽しいが、3時間も連続して乗ったらどうなるか……。
日本においては、テレビの見方は臨場感ではなく、音が重要視されている。多くの人が「無音だと寂しいのでテレビを点け、画面は見たり見なかったり」というスタイルで見ている人が多いのではないか。そういった用途にはニュース番組やバラエティー番組がうってつけで、画面にかじりつくようにして見なければならない構成の番組は日本のテレビではあまり視聴率を取ることができない。
内容の濃いドキュメンタリー番組や、一瞬も目が離せない緊迫したドラマというのは話題にはなるが、実際の視聴率はそう高くないものも多い。みな、家に疲れて帰ってきて、身体を休めるためにテレビを観るのであって、「臨場感」という刺激に浸りたいのは、せいぜい週末ぐらいだろう。
ハイビジョンの「臨場感コンセプト」はメーカーにとっても都合がよかった。臨場感を得るには大画面であることが必要であり、画質に関してもさまざまな技術向上が必要になる。消費者もこういう豊かさを感じられる贅沢感には割と財布を開きやすい。このハイビジョンコンセプトに乗ってテレビを販売すれば、利益をたっぷりと得られる大画面、高機能テレビが売りやすくなるのだ。
多くの家庭では実際のところ、テレビに臨場感を求めてはいない。お父さんが「週末に映画を楽しみたい」と言い張る場合か、単身者で映像に強い興味を持っている人など、臨場感を必要としているのは少数派であるように思う。
日本のドラマと海外ドラマで質が高いのはどちら?
例えば、日本のドラマと海外ドラマでは、日本のドラマのほうが圧倒的に視聴率が取れる。一方で、海外ドラマ好きは「海外ドラマの方が質が高い。日本のドラマは質が低い」と言う人が多い。しかし、これも質の問題ではなく、テレビの視聴スタイルによるものなのだ。海外、特に米国ではテレビを見る時間は少なく、見るとしてもスポーツや、映画などの放映の人気が高い。ドラマは、こういう人たちに見てもらえるように、映画並みの質や構成で勝負していく。しかし、日本ではバラエティー番組や報道番組のフリをしたワイドショーが人気の中心だ。ガッツリとテレビに集中して観るのではなく、他のことをしながら「つまみ観」をする。
こういう中で、内容がしっかりとして画面に集中させるような本格的なドラマはなかなか受けないのだ。視聴者が他のことができなくなってしまうからだ。そのため、日本のテレビドラマは、理想的には「映像つきのラジオドラマ」である必要がある。全てをセリフとナレーションで説明してしまえば、視聴者は目を離して別の用事をこなせるようになるからだ。
だから、日本のドラマは、犯人が拳銃を構えて「撃つぞ!」と言うし、撃たれたほうも「撃たれたー!」と叫ぶ。リアリティを考えたら、コントのようなバカバカしさだが、こうしないと日本のドラマとしては失格なのだ。海外ドラマ好きの人は、こういう部分を捉えて「日本のドラマはレベルが低い」と言うが、そうなのではなく、制作者側が客(視聴者)のニーズをよく捉えて、完成度の高い商品を作っているだけなのだ。
そういう日本的な視聴スタイルの中で、さらに臨場感を追求する4Kテレビはうっかりすると壮大なミスマッチを起こす可能性がある。日本スタイルでは、これ以上の大画面テレビは不要だし、臨場感も必要とされていないからだ。もちろん、数年後か10年後、量販店にも4Kテレビが並ぶことになるだろう。そして、テレビを買い換える人は、4Kテレビを選ぶかもしれない。でも、それは「どうせ買い換えるなら……」という消極的な選択にすぎないのだと筆者は思う。そういう消極的な消費行動の中では、過度の価格競争が始まり、今と全く同じ「台数は売れても利益を稼げない」というメーカーにとっても望ましくない状況に陥る。
もし、テレビメーカーが本気で4Kテレビを売りたいのであれば、「メーカーは優れたハードを作ればそれでいい」という考え方を改め、積極的に映像ソースも供給し、同時にテレビの視聴スタイルを変える啓蒙努力をし、「映像提供サービス」というパッケージのひとつとしてテレビを販売する必要があるだろう。その努力を怠れば、自動車の保有者が一人もいない島に高速道路を建設するようなことになりかねない。
4Kテレビはようやく最初の製品が登場したばかりだ。これからメーカーはさまざまな努力をしていくことになる。普及するかどうかは、メーカーがどのような視聴スタイル、ライフスタイルを提案できるかどうかに懸かっている。
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