おかげさまで当連載は400回を迎えた。第1回は2009年4月17日掲載だったから、8年にわたる長期連載だ。お読みいただき、応援してくださった皆さんと、掲載に尽力いただいた担当者、編集部各位に心からお礼申し上げる。そして、最近からお読みいただいている方々にとって、さすがに400回もあるとバックナンバーを読みづらいかもしれない。その場合は電子書籍版もあるので、ぜひご利用ください(って、宣伝かい!)。

さて、鉄道で「400」にちなんだ話題を探してみたところ、車両としては新幹線車両400系、蒸気機関車400形などがあった。日本では数字の「4」と「9」が縁起が悪いとされているせいか、「4」の付く車両形式が少ないようだ。最近の話題として、名古屋鉄道が発表した名鉄名古屋駅の新駅ビルは長さ400mだという。しかし情報の鮮度が高く、「名古屋駅の駅ビルは400mだよ」「へぇ」となるには、もう少し時間がかかりそうだ。

日本の鉄道初のストライキは1898(明治31)年に起きた(画像はイメージ)

さらに資料を探してみたところ、「日本初の鉄道ストライキの参加者は400人」というネタが出てきた。1898(明治31)年2月24日から2月27日にかけて起きた「日本鉄道機関方争議」だ。東北本線上野~青森間(現在はJR東日本・IGRいわて銀河鉄道・青い森鉄道が運行)で、機関方(機関車の運転担当者)が仕事を停止し、会社側に待遇の改善を訴えた。当時はまだ「ストライキ」という言葉ではなく、「労働罷免」という言葉が用いられた。

日清戦争に勝利した日本では、経済が急速に発展していく。しかし労働者、とくに肉体労働者の待遇は変わらなかった。仕事は増えても給料は増えず、少年や幼年まで長時間労働を強いた。丁稚奉公や徒弟制度の文化が残っていたためでもあった。一方、商店文化から西洋風の企業文化へと変わって、事務方の待遇は改善されていく。事務職と現場職との格差が広がり、鉄道に限らず工場労働者などが労働争議を起こしていた。

日本鉄道は当時、東北方面や関東の一部に鉄道網を持つ国内最大の私鉄だった。明治政府は鉄道をすべて国営としたかった。しかし、政府直轄の官営鉄道が資金不足で鉄道を建設できなかったため、民間出資の会社の鉄道に特許を与えた。ただし、私鉄といっても実質的な建設は官営鉄道が行うなど、資本以外は官営鉄道そのものだったという資料もある。後に日本鉄道は国に買収され、路線は国鉄、そしてJR東日本に継承されていく。

当時の日本鉄道は、官営鉄道をしのぐ規模だったから、東北地方の幹線である東北本線を止めたストライキは大きな事件となった。その詳細は福島大学経済学部教授の庄司吉之助氏が1968年の論文「日鉄機関方・職工同盟罷業の意義」に記している。全文が福島大学のサイトで公開されている。その要点を抜き出してみよう。

機関方の要求は「待遇の改善」「職名の改称」「臨時増給」の3つだった。

待遇について、当時の機関方は日給60銭~1円30銭だった。しかし書記(事務職)は月給12円~60円だった。最低額で比較すると、機関方の20日分で書記と同じになる。いまでいえば週休2日になりそうだけど、おそらく重労働や交代勤務のため、10~15日程度の勤務だったのではないか。また、機関方は働かなければ給料はなく、書記は月給のため休んでも給料は保証された。機関方は書記職と同じ給与などとしてほしいと要求した。

職名について、機関方は「実際に技術を身につけ、鉄道を動かし、ヒトやモノを運んでいる職員は我々だ。しかし、会社は書記より現場職を下位とみている」と主張し、地位向上のために職名を変えてほしいと要求した。具体的には機関方を機関手、火夫(罐焚き)を乗組機関生などであった。臨時増給については、物価高騰のため増給を願い出たにもかかわらず、他の部署は増給され、機関方は増給されなかった。不公平だと主張した。

機関方たちの運動のきっかけは、差出人不明の檄文が各駅の機関方に送られたからだった。要約すれば、「危険で責任を伴う仕事に対して、名誉も待遇も見合っていない。皆で改善を要求しよう」という内容だ。これに呼応して機関方や火夫、見習いたちは「我党待遇期成大同盟会」という秘密同盟を結成した。

各機関区では、「列車が遅れても急行運転をしてはいけない」という安全規則を逆手に取って、わざと列車を遅らせる戦術が始まった。戦後の国鉄で実施された遵法闘争と同じだ。ストライキより先に遵法闘争があった。

事態を察知した会社側は、密告により首謀者を突き止めて解雇した。この知らせは電報で各機関方に通知された。これが結果的に機関方を団結させた。1898(明治31)年2月24日、福島機関区から労働罷免が始まり、翌25日、ついに上野~青森間全列車が止まった。

蒸気機関車を動かす人々が待遇改善を求めた(画像はイメージ)

会社と「我党待遇期成大同盟会」代表による交渉の結果、3月6日に「増給は相当に詮議する事」「機関方以下名称を改むること」「機関方及び機関方心得を三等役員に列すること」「解雇者十名の内主謀者を除き従者を新規採用に止むること」で決着した。労働罷免で迷惑をかけた公衆へ謝罪すること、という条件があったとはいえ、機関方側の要求が実った形になった。

3月28日から職名の改正が行われた。機関方火夫取締役を機関手機関助手取締役に、機関方を機関手に、機関方心得を機関手心得に、火夫を機関助手に、掃除夫をクリンナルとした。鉄道の現場に名誉が与えられた。「我党待遇期成大同盟会」は4月5日に「日本鉄道矯正会」を結成した。これが日本初の企業別労働組合だった。

時は流れて2002年。青森県の八戸駅の南西、駅前立体駐車場の敷地に「日本労働組合運動発祥之地 日本機関方同盟罷工記念碑」が建てられた。石碑はユニオンの頭文字「U」の形となっている。「全日本労働組合発祥百周年記念事業」の文字もある。ここは旧尻内機関区があったところだ。

この地で働いていた石田六次郎こそ「我党待遇期成大同盟会」の中心人物だった。事態収拾のためにいったんは解雇を了承したものの、後に復職し、日本鉄道が国に買収された後は仙台鉄道局の高等官まで昇進した。クリスチャンだった石田は、退官後に孤児院の理事長を務めたという。

※画像は本文とは関係ありません。