JRの列車名は、1日1往復の列車は愛称のみ、2往復以上の場合は「愛称+数字+号」となることが多い。数字の部分は奇数が下り列車、偶数が上り列車という慣例になっている。他の鉄道会社もこの方式を採用している。

ただし、JR九州の肥薩線を走る「いさぶろう」「しんぺい」はちょっと不思議。どちらも片道運行で1日2本ずつ。「いさぶろう」は1・3号、「しんぺい」は2・4号だけだ。「いさぶろう」に2・4号はなく、「しんぺい」に1・3号はない。「いさぶろう」の往復乗車も、「しんぺい」の往復乗車も不可能だ。どうしてこんな変則的な列車名になったのだろうか?

「いさぶろう」「しんぺい」はキハ40系気動車を使用。車両にはふたつの列車名が並んでいるけれど、時刻表や指定席券などでは片方の列車名のみ表記される

じつは、「いさぶろう」「しんぺい」は「組み合わせて往復する」関係になっている。「いさぶろう」は人吉発吉松行の下り普通列車で、「しんぺい」は逆方向の吉松発人吉行上り普通列車だ。ふたつの列車を組み合わせて2往復となる。

使用車両も同じで、キハ40系気動車の改造車両だ。2両または3両編成で運行する。外装は濃い赤に塗られ、室内は木材を多用している。座席の背もたれはスリット入りのチーク色。高級家具の落ち着いた雰囲気だ。客室の中央部に展望スペースがある。デザインはJR九州の観光列車や特急列車などでおなじみの水戸岡鋭治氏が手がけた。

列車名の由来とトンネルに謎を解くカギがある

同じ区間、同じ車両で往復するなら、すべて同じ列車名のほうが判りやすい。それでも、わざわざ下り列車と上り列車で違う名前にした。その理由は、名前の由来となった人物とトンネルが関係している。

「いさぶろう」「しんぺい」の運行図

「いさぶろう」の由来は山縣伊三郎だ。人吉~吉松間の建設当時の逓信大臣だった。日本の鉄道は1892年から1908年まで逓信省が監督していた。一方、「しんぺい」の由来は後藤新平だ。人吉~吉松間が開業した当時の鉄道院総裁だった。鉄道院は1909年に発足し、逓信省から鉄道事業を引き継いだ。つまり、この区間が2つの組織の橋渡し的な存在だった。列車名は「建設時の監督者」と「営業開始時の監督者」に由来している。

「いさぶろう」「しんぺい」ともに重要人物だ。どちらかひとつには決められない。ならば「いさぶろう・しんぺい」でも良かったかもしれない。実際にJR九州は公式サイトで「いさぶろう・しんぺい」という名前で紹介している。しかし、ここでもうひとつの要素、「トンネル」が関わる。

そのトンネルの名前は「矢岳第一トンネル」。人吉~吉松間のうち矢岳駅と真幸駅の間、熊本県と宮崎県の県境に位置する。全長約2.1kmで、肥薩線では最も長いトンネルだ。大工事であり、記念すべきトンネルである。それまで門司~八代間は「八代線」、八代~人吉間は「人吉線」、吉松~鹿児島間は「鹿児島線」だった。このトンネルの開通で、門司駅から鹿児島駅まで線路がつながり、鹿児島本線となった。その後、鹿児島本線の八代~鹿児島間は海側のルートに変更され、山側の旧鹿児島本線は肥薩線となった。

矢岳第一トンネルのように象徴的なトンネルでは、入口にトンネル名の扁額が設置される。扁額は建物などに架けられる看板の一種で、建物名や建設に関わった人物の言葉が掲出される。矢岳第一トンネルでは、人吉側のトンネル出入口に山縣伊三郎の書「天險若夷(てんけんじゃくい)」、吉松側の出入口に後藤新平の書「引重致遠(いんじゅうちえん)」と記された扁額が掲げられている。

そこで、山縣伊三郎の扁額に向かって走る列車を「いさぶろう」、後藤新平の扁額に向かって走る列車を「しんぺい」とした。矢岳第一トンネルが鹿児島本線、いや、九州の鉄道の功労者に敬意を表しているように、列車もまた、2人にちなんだ名前を付けたというわけだ。

人吉駅を発車した「いさぶろう」は、吉松駅から「しんぺい」として戻ってくる。吉松駅を発車した「しんぺい」も、人吉駅から「いさぶろう」として帰ってくる。それぞれの名前の列車が、同じ名前で戻ってこない。珍しい事例となった。