寒さや暑さがない場所のことで、寒い時は寒さに徹し、暑い時は暑さに徹することによって得ることのできる境地。ある僧に「寒熱の責め苦にあえいでいますが、どこに逃げればよのでしょうか」と聞かれた洞山良价は「無寒暑処にいきなさい」と答えた。(参考文献「茶席の禅語句集(朝山一玄著」)

  • 無寒暑

私たちも、暑さも寒さもないところはさぞ快適であろうと考えがちですが、一方で、良くも悪くもない中庸な状態が足を引っ張ることがあります。それは、ビジネスにあっても同じことが言えるのではないでしょうか。「悪くない」ので放置している状態。その間、「悪い」状況にある人は、必死で何か改善や向上のために試行錯誤しているので「良く」なっていく。そうすると当然、「中庸」だったものが「悪く」なってしまいます。

本当の中庸とは、暑さや寒さに徹した末にある、前進とリスクのぎりぎりの均衡のことです。

特に大きな問題はない、その時にどう過ごしますか。スポーツジムに入会しながらなかなか行けずに、健康診断ではまだ深刻な問題がない人と、繁忙期も出張先でもトレーニングを継続する人。「このままではまずいかも」と思いながら最悪ではない時期を逃げ切るのではなく、思い切って新しい行動に出る。行動に出ることのリスクは当然ありますが、それでも「よりよい習慣」を「継続する」「時間を確保する」と決めることです。そうした日々の自分の時間に対する決断が、肩書きや組織の権力に頼らずに、自分の意見や考えを行動に移せるかという体力に変えていける気がしています。

ビジネス茶道に参加してくださるビジネスパーソンの方たちは、決して時間に余裕があるわけではありません。茶会や稽古の日程が決まるとそこを空けると決めていらっしゃるようです。そうでないと、仕事と家族を離れた、自分の時間は作れないからです。

長く同じ世界にいると、価値観や考え方は同質なものになります。組織や業界がそうなってしまうこと、個人も組織も成長や発見がなくなり澱んでしまいます。多様性が叫ばれる昨今ですが、それは性別や障がいの垣根がないことだけを指すのではありません。普段交流のない業種や文化の場に触れている人は、自然と、異なる価値観を吸収することができます。空気を読まない意見を臆することなく発信できて、またそうした意見を真摯に受け止められる組織は、風通しがよく、人材にも厚みが生まれます。

たとえば、組織のリーダーを考える時、そのためのスキルを完全に身につけている人が選ばれるわけではないと思います。足りないものがたくさんありつつ、人を率いる立場になる。先にポジションがあたえられるので、足りないものは周囲に頼ることで補う。そうしたチーム作りがリーダーのスキルだとすれば、厚みのある多様な人材はチームの財産になります。

また、長い人生の中では、ビジネスがうまくいかない時期があります。そうした苦境の時こそ、「その人の生き方」が浮き彫りになるように思います。社会人になってからは、目の前の仕事に忙殺されて自分自身と向き合う時間を持つ人間はまれです。けれども、だからこそ働く人には、日常の肩書きや役割を脱いで心を静かにする時間を少しでも持ち、時々、自分が大切にしたいものを思い出すようにしてほしいと思います。

こだわっていたけれど不要かもしれない教え、身に着けたい習慣、実践したい信念などです。そうした時間が、苦難に風穴をあけるきっかけになります。結果が目に見えない時でも歯を食いしばれるかは、それが自分の信念にずれていないか、リーダーの信条に賛同できるかにかかっているのではないでしょうか。それがまた経験となり、次の苦境を乗り越える時の体力になるのだと思います。

ビジネス茶道の参加者は、茶道初心者なのでいろいろな質問をされます。その方たちは、「答え」を求めているわけではなく、さらにその先を考えるための材料にしているように感じます。茶道の決まりや所作には、それが生まれた歴史や背景があります。それを感じることが茶道の教えであり、茶碗を何回回すかを知っていることが大切なわけではないのです。そして逆説的ですが、その背景がわかると所作を間違えなくなっていきます。自分が失敗しないことに意識を向けるのではなく、共に茶を喫するという目的のために自分が役割をどう果たすか、それに目を向けて気を配ることができるようになっていきます。

組織で、上司に与えられた役割を好成績でこなすことに集中するだけでは、いずれ上になった時に行き詰まってしまうでしょう。下の人や横繋がりの人たちをどれだけよく見ていて、知っているか。普段は活躍しない人が、ある特別な時には能力を発揮できたりします。目の前の仕事がどんな意味を持つのかを知ることで、ミスが減らせます。スピードが求められる社会では、どの立場でも、答えや成果に気を取られがちですが、「どう思う? 」「なぜ必要? 」という問いを意識することが、新しい時代の価値観で生きていくヒントになると思います。

意識して行動を変えるのではなく、行動を変えることで意識を変えます。習うより慣れろ、暑さに徹し、寒さに徹することで、新たな意識に変わります。茶道の魅力は美術館に展示された文化財ではなく、今を生きる人々の中にあり続けてきたことにあります。

プロフィール : 水上 繭子(みずかみ まゆこ)

大学時代に表千家茶道の師と出会い、入門。京都家元での短期講習会に参加し、茶道の奥深さに惹かれ、政府系金融機関OECF(海外経済協力基金)勤務や結婚、子育ての中で、茶の湯の稽古を継続する。その後、茶道の豊かさ、楽しさ、奥深さを伝えるべく、茶道教室を主宰。近年はコミュニケーション力や新しい発想力を養う人間力道場としての茶道を提案している。