与論島。……この島の名前を、聞いたことがあるという人はけっこう多い。にもかかわらず、この島がどこにあるのかと尋ねると、それはよくわからないと言う。

もしこの島の名前にサンゴ礁と白いビーチのイメージが付いてくれば、「沖縄のどこか、かな? 」となる。あるいは"ヨロン"というカタカナのイメージから、日本ではなく南太平洋にあるんじゃないかと思っている人もいる。

実際にこの島がどこにあるのかといえば、行政上は鹿児島県である。九州の南から台湾の手前まで、長く連なる島々がある。日本の南西端を構成する、その名もずばり南西諸島だ。南西諸島は鹿児島県に属する部分と沖縄県に属する部分に分かれ、さらにそれぞれが数々の諸島に分けられるが、このうち鹿児島県側の南部の島々が奄美諸島である。


奄美諸島のいちばん南、沖縄本島までもうあと20km強という場所に与論島は浮かんでいる。周囲も23km程度という、まあさほど大きくはない島だ。

これは以前、小型飛行機で与論島上空を飛んだ際に撮影したもの。与論島はエンゼルフィッシュの形をしているといわれる。僕的には、口をニューッと突き出したタコの横顔のようにも見える

鹿児島市まで500kmある鹿児島県

与論島は鹿児島県に属しているとはいえ、県庁所在地の鹿児島市まではおよそ500kmもある。飛行機で1時間10~20分、フェリーでは奄美大島、徳之島、沖永良部島に寄港して20時間前後の長旅になる。

一方、沖縄本島最北端の辺戸岬へは約28km。島からは、やんばる(沖縄本島北部の地方。ヤンバルクイナで有名)の山並みもすぐそこに見える。那覇は長い沖縄本島の南部なので直線距離で120km程度はあるが、フェリーでは5時間弱、飛行機なら約40分のフライトで行けてしまう。鹿児島市より圧倒的に近い。

こちらも以前の空撮。与論島は周囲のほとんどをサンゴ礁のリーフに囲まれた島で、海も、そして白いビーチも最高に美しい。エーゲ海に浮かぶギリシャのミコノス島と姉妹都市協定を結んでいる

ともあれ、奄美諸島に含まれる与論島は、鹿児島県に属している。つまりその南には沖縄県の島々が連なっているわけである。なのにどうして、かつてここが"日本の端"だったのか? ある程度世代が上の方であればピンとくるだろう。その背景には、南西諸島が経験せざるを得なかった"分断の歴史"がある。

1972年、沖縄が日本に返還された。その年まで、沖縄は日本ではなく、いわば"アメリカ"だった。そして、その"アメリカ"にいちばん近かった島が、ここ与論島なのである。 多くの日本人は、戦後の沖縄がアメリカの軍政下に置かれていたことを知っている。実は沖縄だけでなく、奄美諸島や、その北にあるトカラ列島も(さらには東京都に属する小笠原諸島も)戦後しばらくアメリカの支配の下にあった。奄美やトカラは沖縄より早く1953年に日本本土復帰となったが、それ以降、1972年の沖縄復帰まで、与論は"アメリカ"が見える日本の端だったわけだ。

秋のとある昼、与論島に到着

僕は、これまでに与論島を6度訪れている。それらは基本的に休息の旅であって、海を楽しんだり、星空を楽しんだり、あるいはただ何もせずにぼーっとしたりするためであったのだけれど、今回の訪問の目的は"日本の端"という観点。であるから、初めに歴史に関する記述が長くなってしまったことはまあご勘弁いただきたい。

那覇からフェリーでほぼ5時間、与論島が間近に迫ってきた。デッキに出て、島を眺める。空は青空、海は紺碧、風がなんとも心地よい。与論の海の表玄関・供利港は島の南海岸にある

与論へのアクセスは、沖縄方面からと鹿児島方面から、空と海のそれぞれ2ルートがある。鹿児島方面から飛行機や船で訪れたことも1度ずつあるが、それ以外はすべて沖縄方面から。今回も那覇からフェリーで訪れた。話はやや古くなって恐縮だが、修学旅行シーズンたけなわの、2007年秋のことである。

朝7時に那覇を出航したフェリーは、途中、沖縄海洋博公園や美ら海水族館に近い本部(もとぶ)港を経て、正午すぎに与論・供利港へ到着した。

左は供利港の桟橋。与論にはこのほかにもう一つ、中心集落の茶花の近くに港があり、風の状況などによってはそちらに着くこともある。着岸直前、デッキから海を見下ろすと、この色(右の写真)

与論ではいつも楽園荘という宿にお世話になっている。離島の宿は基本的に、港や空港まで送り迎えにきてくれる。もちろん楽園荘もそうしてくれるが、この日は僕が到着日の連絡を1日間違えており、ほかに宿泊者もいなかったため、港に楽園荘のクルマはきていなかった。すぐに呼んでもいいのだけれど、まあ急ぐこともないので、港から空港までのんびりと歩くことにした。

与論空港の小さなビル。那覇へは琉球エアコミューターが、鹿児島へは日本エアコミューターが飛んでいる(便数は季節により異なる)。このほか北隣の沖永良部島へも便がある(今回は撮影するのを忘れたため、写真は別の機会に撮ったもの)

空港のそばにある「蒼い珊瑚礁」という食堂で、まずは昼の腹ごしらえ。与論島名物の一つである「もずくそば」をいただいた。 その名のとおり"もずく"を練り込んだ緑色のそばで、さらに生もずくや豚の角煮などがのっている。そば自体はとくにもずくの味がするということもないのだけれど、与論にくるとやっぱり食べたくなる。

与論島名物の一つ、もずくそば。温かいそばと冷やしそばがある。島内ではこのほか、もずくをふんだんにのせた「もずく雑炊」を出す店もあって、こちらもおすすめ

食後、楽園荘に電話したら、この日は楽園荘ほか与論の宿に分散して泊まっていた修学旅行生が船で帰る日で、楽園荘のクルマもちょうど港へ向かうところ。空港で拾ってもらい、宿の人たちと一緒に修学旅行生を港で見送ることになった。 与論は修学旅行の誘致に積極的な島で、シーズンには次から次へと関東などから学校がやってくる。今回は神奈川県・横浜商業高校(高校野球では「Y校」としておなじみ)の生徒たちが与論滞在を終え、フェリーで沖縄へ戻るところだった。

まずは桟橋に生徒一同が座り、島代表、生徒代表がそれぞれ挨拶する出発のセレモニー。その後、生徒たちが口々に「またくるからね! 」「ありがとう! 」などと言葉を残しつつ、船に乗り込んでいく。出航時には船上からみんなで紙テープを投げ、岸壁側で島の人々が受け止めた。僕も必死にキャッチ。「せっかく投げたのに受け取る人がいなかったらかわいそうだからね」とは楽園荘のおかみさん・マサ子さんの言葉。

修学旅行生たちが船で与論を離れていく。思い思いの紙テープを、桟橋で見送る島の人たちが必死に受け取る。この旅が素敵な思い出となることを祈るように、船の姿が見えなくなるまで、島の人々は手を振り声を出し続けていた

各学校の滞在は重ならないように設定されていて、修学旅行シーズンの平日には入れ代わり立ち代わりやってきたりもする。今回の訪問は週末からだったため、翌週まで新たな修学旅行生はなし。楽園荘に着くと、他の宿泊者も僕以外ひとりしかいなかった。聞こえてくるのは、サトウキビ畑を静かに渡る風の音だけ。ゆるやかな時間が流れていた。

次回の与論島中編では、海の向こうに"アメリカ"を見た人々、をお届けします。