富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。

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富士通の第1号パソコンは、1981年5月20日に発売された「FM-8」だ。しかし、その前身となる製品がある。1977月5月9日に発表した8ビットマイコン「LKIT-8(エルキットエイト)」だ。パソコン参入では遅かった富士通であったが、LKIT-8の発売時期を見ると、マイコンキットの発売では先行グループの1社だった。

FM-8は、半導体を担当する半導体事業本部が開発したパソコンだが、このLKIT-8も同事業本部が開発したもので、まさにFM-8のルーツともいえる製品だ。LKIT-8は、1977年5月12日から東京・平和島の東京卸売センター(現・TRC東京流通センター)で開催された「マイクロコンピュータショウ‘77」の富士通ブースに展示。それを機に販売を開始した、ワンボードコンピュータとキー入力表示ボードからなるマイコンキットだ。

  • 富士通が1977月5月9日に発表した8ビットマイコン「LKIT-8(エルキットエイト)」

電子デバイス部門で開発されたLKIT-8の製品化の目的は、マイコンの拡販であった。その一方で、「これからマイクロコンピュータについて勉強をはじめる人、実際にマイクロコンピュータを用いた装置の設計や製作を計画している人、マイクロコンピュータに興味を持っている人のために開発したシステム」と位置づけ、「2つのボードを添付のケーブルで接続し、5V単一電源を供給するだけで、マイクロコンピュータの操作が可能になる。ボードの組み立てにまつわるミスなどの心配は一切ない」とうたっていた。学習用とはされていたが、共通バス構造を持つ拡張性あるマイクロコンピュータとして、産業機器の制御などにも使用された。

LKIT-8の価格は85,000円。当時のニュースリリースには「即納」という言葉が付け加えられている。コンピュータは即納する製品ではないというのが一般常識だった当時、「即納」の文字は新たな時代のコンピュータであることを示す、意味を持った言葉であった。生産は富士通沼津工場で行い、販売目標は「今後3年間に1万セット以上」と大きく掲げられた。だが、LKIT-8の営業担当者はOEM営業部門のなかに置かれたわずか2人の社員だけだった。

仕様面を見てみると、LKIT-8が搭載する「MB8861」プロセッサは富士通が開発したCPUで、クロック周波数は1MHz(2相)。モトローラの「MC6800」に独自命令を追加し、上位互換性を持たせた汎用マイクロプロセッサだ。富士通がインテルとセカンドソース契約を結んでCPUを開発したのが1978年であり、それより前に開発した8ビットCPUだった。

  • 基盤に実装された「MB8861」プロセッサ(写真左)。写真右のプロセッサには「MB8862」とある

PROMは1KBで、さらに1KBの拡張に対応。RAMは750バイト、500バイトの増設が可能だった。キー入力部は、ファンクションキーが9個、数字や英文字のデータキーは16個を搭載。電源投入時やリセットキーを押したときに、読み出し専用メモリー(PROM)内のシステムモニタプログラムが起動して、動作を開始する。

加えて拡張性が大きな特徴で、8ビットパラレル入出力ポート×4基、シリアルI/Oポート×1基を備え、キーボードの代わりにタイプライターを接続したり、カセットテープレコーダーによるデータの書き込み・読み出しが行えた。

  • 「LKIT-8」のプレスリリース(クリックで拡大表示)
    資料提供:富士通

16ビットのマイコンキット「LKIT-16」もあった

実は、LKIT-8が発売される1カ月前の1977年4月1日には、パナファコムから「LKIT-16」が発売されている。パナファコムは、1973年7月に、ミニコンピュータおよび関連装置、ソフトウェアの研究、開発、製造、販売を行うことを目的に設立した合弁企業。のちに富士通が発売する企業向けパソコン「F9450シリーズ」の開発でも、重要な役割を果たす。

資本金10億円の出資比率は、富士通が35%、富士電機が15%、松下電器産業(現・パナソニック)が20%、松下通信工業(現・パナソニック モバイルコミュニケーションズ)が25%、松下電送機器(現・パナソニック システムソリューションズ ジャパン)が5%だった。ミニコン事業における富士通とパナソニックの連合軍である。

松下電工の丹羽正治社長が会長を務め、富士通の高羅芳光社長がパナファコム社長を兼務。出資各社の社長全員が取締役に名前を連ね、そこからも両社トップの肝入れで作られた戦略性を持った会社であることがわかる。パナファコムは、1987年にはユーザック電子工業と合併し、それぞれの頭文字を取ったPFUが誕生し、現在に至っている。

パナファコムから発売されたLKIT-16は、日本初の16ビットマイコンキット。当時の主流だった「コンピュータ知識を習得するための学習用キット」としてのニーズだけでなく、広がり始めていたマイコンの評価用として、あるいは応用性を検討するための役割が強かったといえる。

CPUには、16ビットマイクロプロセッサ「PFL-16A」を採用。1KBのROM、512バイトのRAMを搭載していた。48個のキーを持つキーボードを標準装備しており、アセンブラや定数をキーから直接入力でき、プログラミングやデバッグなどを効率よく行えるのが特徴。ファンクションキーによるレジスタ内容の直接表示や、システムリセットといった機能によって、スタンドアロンシステムに匹敵するコンソール機能やデバッグ機能を実現。22個の割り込み機能や、外部機器のリアルタイム制御を搭載し、「プロフェッショナル用途からアマチュア用途まで、幅広い対応が可能」としていた。価格は98,000円、電源は別売。

東京・御成門のナショナルビル別館(当時)に設置されたパナファコムの東京営業所には、LKIT-16コーナーを設置していた。実機の展示に加えて、組み立て講習会を定期的に開催し、プログラミング講習会でアプリケーションの開発を指導するといった活動も毎月実施したという。

富士通のLKIT-8と、パナファコムのLKIT-16は、同じ「LKIT」という製品ブランドを持っていた。しかし、富士通の半導体部門が開発・販売したLKIT-8と、ミニコンメーカーであるパナファコムが開発・販売したLKIT-16では、モノづくりの方向性に大きな違いがあったといえる。

45年前に描いていたいまのパソコンの姿

富士通は1977年に、社内プロジェクト「FFF(Five years Forecast for Fujitsu)PART2」をスタートしている。FFF PART 1ではメインフレームを中心に議論がされていたが、PART2では、のちにOASYS(ワープロ機)を開発することになる神田泰典氏が中心となり、SE、ハードウェア、ソフトウェアといった各部門の若手約50人を集めて、10年後のシステムイメージを描いた。

ここでは、コンピュータ産業の行方を情報処理産業から情報処理サービス産業になると予測。中央データバンクから地域データバンクに情報が届けられ、さらにそこから家庭内のデバイスにネットワーク接続。接続したホームコンピュータを通じて、各種情報を収集したり、電子メールのやりとりをしたりするほか、医療との連携、教育やホビーでの利用などを想定している。

当時の資料を紐解くと、いまでいうパソコンやタブレットのような形状のデバイスが登場すること予測されていた。それを「フレンドパートナー」と呼び、今後は日本語処理への要求が高まること、ドキュメント処理が求められることなども示している。

  • 社内プロジェクト「FFF(Five years Forecast for Fujitsu)PART2」の資料の一部

この姿は、インターネットやクラウドが広く浸透した現在の姿に合致するものがある。中央データバンクや地域データバンクは、いまでいうデータセンターだ。富士通社内では、このような世界が到来することを、いまから約45年前に描いていたともいえる。そうした方向感を持ったうえで、LKIT-8が開発されていたというわけだ。

この世界観においては、フレンドパートナーとする家庭向けパソコンは、マイコンを起点とした半導体事業本部が起点となり、垂直統合ビジネスを構築し、新たな市場を開拓するというスキームを描いていたことが感じられる。それが、半導体事業本部がパソコン事業に乗り出すきっかけであったといえそうだ。

そして「FM-8」へとつながっていく

さて、LKIT-8の発売から約2年後の1979年5月7日、富士通はLKIT-8の後継機「NEW LKIT-8」を発売した。このころになると、当初はホビーストの購入が圧倒的だったマイコンキットのニーズが変化。企業の製品開発部門や研究所がマイコン応用製品の開発に利用するケースや、企業内でマイコンに関するハードウェア・ソフトウェアの知識を持つ設計技術者の育成ニーズが急増していた。

NEW LKIT-8では、「マイコンの技術理解と習得、実務レベルでの使用の面から製品化を検討し、そのために豊富な機能を搭載した。ソフトウェアの開発に重点をおいた製品に進化させた」と、LKIT-8後継機として新たなコンセプトを掲げた。

実際、当時の関係者に聞くとこんな話が聞かれた。

「LKIT-8の開発チームは、次はパソコンをやりたいという気持ちがあったが、社内的にはパソコン開発にまだGOサインが出ていなかった。NEW LKIT-8は、建前上はマイコンだが、本音はパソコンを意識して開発したもの。本社からストップがかからないように、また、電算機事業本部を刺激しないように、ぎりぎりの線を狙った製品コンセプトだった。この経験が、その後のパソコン開発で基盤にもなっているのも確かだ」

  • LKIT-8のパッケージ(NEW LKIT-8ではない)

それを裏づけるように、CPUにはLKIT-8と同じMB8861を採用する一方、2KBのROM、2KBのRAMを標準で搭載。プログラムを作りやすくするために、37種類のモニタ機能も用意した。具体的な機能としては、基本モニタ機能、基本カセット機能、拡張モニタ機能、拡張カセット機能のほか、レジスタ表示やブロック転送などのデバッグに有効な機能、1,200bpsまでの可変転送速度などが挙げられる。また、ラベルを付けたプログラムの管理を行うといった、プログラム保存に最適なカセットテープレコーダー制御機能を搭載していた。

さらにLKIT-8と同様に、カセットテープレコーダーを補助記憶装置として扱えるようにするため、カセットインタフェース(シリアル入出力ポート)を実装。モニタ機能との組み合わせによって、高速データ転送やカセットテープ編集ができる機能を搭載していた。価格は93,000円だった。

このとき富士通では、8ビットマイコン学習キット「富士通PIA学習キット」も同時に発売している。PIAは「ペリフェラル・インタフェース・アダプタ」の略称で、温度、光、音といった各種センサー、D/Aコンバータ、発光ダイオードなどを利用しながら、マイコンのインタフェース作成や応用技術の学習が可能だった。

解説書に従って、組み立て、ハンダ付け、試験、プログラム入力といった実習を行い、電子ミシンやNC装置などのマイコンを応用した各種のシステム設計・開発に必要なセンサーやインタフェースの作成を学べた。

マイコンキットで先行したNECが「TK-80」を発売したのは1976年8月。富士通のLKIT-8投入はそれから約9カ月遅れていたが、「拡張性に優れたマイコン」として市場からは高い評価を得ていた。コンピュータメーカーとしての自負もあり、高い性能や拡張性を持った製品を開発したのが、富士通のマイコンキットの特徴だったといえるだろう。こうした「疑似パソコンづくり」ともいえる経験と成果をもとに、富士通の電子デバイス事業部門は、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」の発売へとつなげることになるのだ。