ThinkPadが2017年の10月5日で25周年を迎えた。今回はそれを記念して日本IBM時代からThinkPad開発に携わり、「ThinkPadの父」とも呼ばれる内藤在正氏(現レノボ・ジャパン取締役副社長研究開発担当。以下敬称略)のインタビューをお届けする。無線技術や入力デバイスといったさまざまな技術的観点から、これまでの歩みとこれからの「PCの行く末」を語ってもらった。第1回は無線技術について聞く。

日本IBMでThinkPadの開発に最初からたずさわり、現在はレノボジャパン取締役副社長研究開発担当の内藤在正氏

無線技術とThinkPad

――振り返るとThinkPadはIrDAやBluetooth、無線LAN、LTEモデムといった無線技術を比較的早い時期に搭載していました。無線技術を率先して搭載したのはどうしてでしょう?

内藤:ThinkPadをはじめとしてノートPCは、バッテリを搭載することで電源ケーブルから自由になり、どこへでも持ち歩けるようになりましたが、まだネットワークは有線接続でした。"次の課題はネットワークだ"ということははっきりしていました。ただ、ネットワークは相手が必要なものなので、規格の成立やインフラの普及を待つ必要がありました。

※筆者注:最初のThinkPad 700は1992年。現在の無線LANにつながる最初の規格IEEE802.11の成立は1997年。IEEE 802.11bの規格成立と市販開始は1999年。

はじめは会社にいけば高速なネットワークが利用できました。やがて一般家庭にもADSL(国内では1999年にサービス開始)のような高速インターネットが入ると、自宅と会社といった「島」でネットワークが使えるようになった。まだ「島」と「島」の間では、ネットワークに繋がっていなくても可能な仕事を行うという使い方でした。

次第にコーヒーショップや空港など、通信が利用できる「島」は増えていきましたが、無線LANは、そうした「島」に対して「最後の10メートル」を接続する重要な役割があり、ThinkPadにとっては搭載すべきものだったのです。

無線LANを搭載しはじめたころの苦労

――無線技術を搭載しはじめた時期は、どういうところに苦労されたのでしょうか? 発表会などではアンテナの重要性がよく語られるようですが。

内藤:アンテナはもちろん重要ですが、初期のころに問題だったのは無線LANを正しく制御する「アルゴリズム」でした。この分野に関しては、研究が進んでいたわけではなく、さまざまな実験を繰り返しながらアルゴリズムを修正していく必要がありました。

アンテナの位置や形状を変えることで、通信効率が上がることもあります。しかし、それだけではお客まさに対して何らかの「価値」を提供したことにはなりません。当時は、技術者もそういう部分が分かっていなかった。

お客様の価値というのは、例えばいままで10個必要だったアクセスポイントが3つでカバーできるようになるというようなことです。単にカタログ値を上げるのではなく、結果的にお客様に何らかの価値を提供できるようにすることが目標であるべきです。

移動して利用する無線LANでは、常に同じ電波環境であるとは限りません。そこで、タイヤのついたワゴンに機器を乗せて、研究所の中をあちこち移動しながら、アクセスポイントを切り替えて通信状態を測定するといったこともやりました。

検証の結果、アクセスポイントをうまく切り替える無線LAN制御のアルゴリズムの重要性が分かった。これを間違うと、電波の弱くなったアクセスポイントにいつまでも接続していて、結果的に速度が出ないということになってしまいます。つまり、アンテナのゲインだけを上げても、通信品質を上げることはできなくて、アルゴリズムを含めて総合的にやらなければ、お客様に新しい価値を提供できないのです。

――なるほど、ですが、基本的に無線LANは半導体メーカーのチップを使っていて、PCメーカーで得た知見を反映させるのは簡単ではないような気がしますが。

内藤:PC業界では技術やノウハウを「秘密」にしておくことはできないと思っています。もちろん、先行者利益はありますが、半導体メーカーに知り得たことをフィードバックして製品に反映してもらったり、Microsoftと共同でシステムモジュールやデバイスドライバを改良して、自社製品を改良していくことは、結果的にPC業界全体に行き渡ることになります。逆に、ここを完全に秘密にしようとすれば、汎用の半導体製品や標準的なWindowsというものを諦めるか、全部自前でやらなければならなくなってしまいます。

――ということは、ThinkPad開発の過程で得られた知識を無線LANコントローラーのメーカーなどにフィードバックするということもあったということですか?

内藤:それはかなりありましたね。

WWANの普及と常時接続の時代

――現在としては、LTEなどのWANということになると思うのですが、LTEを搭載するのはWi-Fiよりも難しいのでしょうか?

内藤:無線LANでも、アンテナのそばに金属があるとその影響を受けるなど、簡単にはいかない部分があるんですが、LTEは、その数倍難しいといってもいいでしょう。無線LANを搭載したPCは数多くあるのに、LTEを搭載したPCの数が少ないのはこうした難しさがあるからです。

もう1つ理由があります。つい最近まで、通信料が高く、LTEを搭載しても利用できるのがごく限られたユーザーで、搭載したからといって多くのユーザーに評価されるわけではなかったという部分もあり、限られた機種での展開になっていました。

自分を含めて、多くのユーザーは、ランニングコストがかかるから、スマートフォンなどのテザリングで済ませていたというのが実情です。そういう時期には、PCにLTEを内蔵することに意味があるのか? と考えたこともあるのですが、現在ではLTEのデータ通信コストがかなり下がってきていて、もう1つ契約を追加しても差し支えないと考えるユーザーが増えてきました。

いまはPCは直接LTEでインターネットに接続するべきと考えています。スマートフォンを操作してテザリングをオンにしたり、無線LANを見つけて接続するといった方が多いと思いますが、PCを開いたら、いつでもネットワークに接続できるのが普通になれば、テザリングの操作手順などは面倒だとしか考えられなくなるでしょう。

PCも現在のスマートフォンのように、必要なときだけ接続するのではなく、「Always Connected」になり、それによって新しい使い方が出てくるのではないかと考えています。

――WindowsだとConnected Standby(Instant Onなどとも。Windows 10ではConnected Modern Standbyという名称になった)で、画面をオフにして低消費電力状態になって、ときどき通信するといったことが可能になりましたが、PCとしてはよりそうした機能が盛り込まれる方向性になるんでしょうか?

内藤:私はそう思っています。導入するとなると上位機種からということになるでしょう。というのも、ちゃんと動かそうとすると、これはかなり難しい。PCに入っているデバイスドライバなどがすべて正しい挙動をして初めて、低い電力状態を保つことができるからです。

かつては、サードパーティドライバなどで、挙動が不審なものがあったのですが、最近ではマイクロソフトもボックスドライバに力を入れていて、品質は上がりつつあります。

――そうなると、スマートフォンのようのような使い方も増えてくるのでしょうか。たとえば、音声で命令を出すといった使い方などです。

内藤:全体で見れば増えるとおもいますが、ビジネスとコンスーマーではユーザーの感覚が違います。コンスーマーであれば、「いつでも命令を聞いてくれて便利」と思うのかも知れませんが、ビジネスとなると「いつでもオレの話を聞いているのか?」と考える人は少なくありません。

そうなると、常に音声のコマンドを受け付ける機能がビジネス向けでユーザーのメリットになるとは限らないのです。なので「capability」としては常に音声を聞くことはできても、ユーザーがこれを制御できるようにしておく必要があります。

――無線というテーマに戻りますが、無線LAN以外にもBluetoothやNFC、GPS、あるいはワイヤレス充電など「無線」技術が増えてきました。モバイルPCを考えるとこれまで有線でつないでいた多くのものが「無線」化していくのでしょうか?

内藤:そういう傾向はあるかと思いますが、普及やインフラ次第という部分も大きく、技術だけの問題ではないでしょう。例えばワイヤレス充電を考えたとき、メリットが大きくなるのは、ホテルや喫茶店といった場所でワイヤレス充電ができるようになったときで、そうなれば、当然モバイルデバイスはこれに対応することになります。しかし自宅やオフィスでの充電でしか使えないとなると、コストに対するメリットが見いだしにくくなります。

複雑化するデバイスとクラウドサービス

――それで、LTEまで搭載して無線で通信が自由になり、BluetoothやNFCなどでさまざまなデバイスと接続ができるようになる。そうなると、その先はどうなるんでしょうか?

内藤:言い方が難しいのですが、みなさんが使っているスマートフォンやタブレット、PCといった環境は、みなさんが望む以上に複雑になっていると感じています。

Android、iOS、Windowsと複数のプラットフォームがあって、それぞれのクラウドサービスがある。だけど、ほかのサービスも別のプラットフォームから利用できることもあり、よくよく考えないと、自分のアドレス帳がどのデバイス、どのサービス上にあるのかさえ分かりにくい。

このまま進むと、それぞれがさまざまな機能をもち、相互の関係がどんどん複雑になってしまいます。これは、どこかで一回「リセット」してシンプルにできるようにしなければならない気がしています。もちろん私たちだけでできることではないのですが、ずっとそれを考えています。

IBMはタイプライターの会社だった

――ThinkPadの中でキーボードはどういう位置付けだったのですか?

内藤:IBMは、タイプライターを製品としていたこともあって、キーボードはこうあるべきだと考える人が多く「私たちはキーボードのプロである」という自負を持った人たちの流れを汲んでいるので、ここは譲れないという部分がありました。(その2に続く)

次回はThinkPadのキーボードにこめられたこだわりや、タッチ・ペン入力といった入力デバイスの動向などについて聞く