内田百閒(ひゃっけん)といえば、かの文豪・夏目漱石の弟子にして、小説家・文筆家として多くの作品を残した人物。その一方で、かなり「鉄分」の多い人だったようです。『阿房列車』という一連の作品がとくに有名で、戦後、まだ新幹線など影も形も構想もなかった(いや、構想自体はあったかも。戦前から「弾丸列車計画」もあったし……)頃の国鉄で、日本のあちこちへ意味もなく行ってくる、という内容です。

この「意味もなく」というのが重要で、仕事とか、人に会うとか、観光とか、そんな目的をまったく排除し、純粋に「鉄道を楽しむため」に列車に乗るのです。当時としてはかなり斬新なコンセプトだったといわれています。本来、目的地へ行くのを便利にするための手段だった「鉄道」そのものを旅の目的にしたのですから。

小淵沢駅に入線する小海線の列車。この旅が鉄道好き・旅好きの"原体験"に

高原を走る小海線、想像をはるかに超えてすばらしかった!

筆者(関西在住)の父は早くに亡くなりました。別段、「鉄ちゃん」でもなかったのですが、なんとなく鉄道の旅は好きだったようで、春休みのある日、突然、「小海線に乗りに行こか!」と言い出しました。何も用事がないのに……。どことなく『阿房列車』を思わせる汽車旅の始まりでした。当時、筆者は中学2年から3年生になろうとする頃。いろいろな場所に行ってみたい盛りだったこともあり、喜んで旅の支度をしました。

当時、国鉄のトクトクきっぷに「信州ワイド周遊券」がありました。みどりの窓口でこれを買い、マクドナルドでハンバーガー2つ買い込み、筆者と父は大阪駅から夜行急行「ちくま」に乗りました。車両はたしか、キハ58系などディーゼルカーをつないだ編成だったように記憶しています。

「ちくま」は深夜23時前に出発。筆者は夜行列車の風情を堪能しました。ずっとテンション上がりっぱなしで、さすがに疲れて少しウトウトし始めた頃には、すでに夜が明け始めていました。早朝5時前。「ちくま」は塩尻駅に着き、ここで下車しました。春まだ浅い信州の夜明け前。尋常でない寒さのように感じられました。

塩尻駅で乗り換えて、通勤時間帯に入る少し前の中央本線の列車で小淵沢駅へ向かいます。途中、諏訪湖を眺めたり、「ちの」(茅野)の読み方を覚えたり……。そんな細かいこともいまだ鮮明に記憶に残っているくらい、十分に鉄道を楽しみました。

小淵沢駅からは、いよいよお目当ての小海線に入ります。

小海線は国鉄で最も標高の高いところを走る路線として全国的に有名で、雑誌などでその素敵な沿線風景を何度も見てきました。小海線の列車に乗ってからしばらく後、実際に目の前に広がった景色は、筆者の想像をはるかに超えてすばらしかったのを覚えています。高原の景色がパノラマのように広がるのです。

当時の小海線では、キハ52形やキハ58・28形などが活躍していた

小海線を楽しんだ後、小諸城址で「千曲川旅情の歌」の歌碑を見たり、長野市内に移動して善光寺へお参りしたりと、つかの間のひとときを楽しみました。

夜は長野駅前のビジネスホテルで1泊。晩ごはんの買出しに出たデパートで、なんとなく魅力的なプラスチックのミニカーを見つけ、「何でわざわざ旅先で……」と思いながらも、3個ほど買ってしまいました。ランボルギーニ・カウンタック、フォルクスワーゲン、そして救急車のミニカー。いまとなっては大変な値段の付いているチョロQのオリジンです。まさかその後、シリーズ化されて続いていくとは思ってもみませんでした。

翌日、篠ノ井線で松本に出て、特急「しなの」で名古屋へ。車窓の下に、付かず離れず流れる木曽川が見えます。車窓の景色をぼんやり眺めながらの旅は気分のいいもので、筆者が鉄道好き・旅好きになったのも、これが原体験だったような気がします。

名古屋駅に着くと、もう日が落ちるところでした。ここからはぜいたくに新幹線に乗車。父と2人で出かけた『阿房列車』の旅は、無事に暮れていったのでした。