コンピューターというハードウェアを活用するために欠かせないのが、OS(Operating System:オペレーティングシステム)の存在です。我々が何げなく使っているWindows OSやOS XだけがOSではありません。世界には栄枯盛衰のごとく消えていったOSや、冒険心をふんだんに持ちながらひのき舞台に上ることなく忘れられてしまったOSが数多く存在するのをご存じでしょうか。「世界のOSたち」では、今でもその存在を確認できる世界各国のOSに注目し、その特徴を紹介します。今回はCommodore 64のOS「GEOS」を取り上げましょう。

1980年代を一世風靡した「Commodore 64」

本記事では8ビットコンピューターを何度が取り上げてきましたが、1980年代前半の海外における"8ビットコンピューター御三家"に数えられるマシンを外すわけには行きません。この時代はそれまで企業や研究機関に使用されていたコンピューターが個人の手に渡りつつあるパーソナルコンピューターの過渡期に当たるからです。今回は1982年8月にCommodore(コモドール)が発売した「Commodore 64」を取り上げましょう。発売元であるCommodoreは何度か紹介したJack Tramiel(ジャック・トラミエル)氏が創業した会社です。興味をお持ちの方は以前の記事「世界のOSたち - 一時代を飾った「Amiga OS」とそのクローンOSたち」「世界のOSたち - Atari STというコンピューターを支えた「TOS」」も併せてご覧ください。

Commodoreはタイプライターの修理屋から始まり、後に電子計算機(電卓)の製造や販売を行う会社です。電卓で名を知らしめた同社はパーツを提供する企業をいくつか買収しました。その中の一社がMOS 6502というプロセッサを開発した半導体メーカーMOS Technologyです。この買収劇により、同プロセッサの設計者であるChuck Peddle(チャック・ペドル)氏がCommodoreの技術部門のトップに立ったことで、同社におけるパーソナルコンピューターの歴史が始まりました。なお、MOS 6502を手に入れたStephen Wozniak(スティーブン・ウォズニアック)氏がApple Iを独自開発した話や、互換プロセッサがファミリーコンピュータ(通称ファミコン)に採用されたのは、あまりにも有名な話です。

優秀な人材や安定した基盤を得たCommodoreは、1977年1月に「PET 2001」というパーソナルコンピューターをリリースしました。Peddle氏はTramiel氏に電卓以外の道を選択することを示し、同社のエンジニアリング長やTramiel氏の息子であるLeonardo氏が参加するチームを発足。半年の開発期間を経て、4キロバイトのメモリと6502プロセッサ、キーボードやカセットドライブ、9インチミニターを一体化した同コンピューターを世に送り出しました。発売直後から同社には注文が殺到し、当初「120日内に配送。または全額返金」という配送ポリシーを掲げていましたが、同社が495ドルから595ドルに価格を値上げしても、返金要求は一切なかったそうです。この爆発的ヒットが後の8ビットコンピューターの基盤となりました(図01~02)。

図01 PET 2001上のBASICが稼働している状態。もちろんこの頃の記憶メディアはカセットテープです

図02 PET 2001にもゲームは提供されていました。画面は作者不明の「Space Invaders」

PET 2001の成功を背景に同社は、300ドル以下で購入できるコンピューター「VIC-20」を1980年に市場投入します。コンピューターのスペックはさほど高くありませんが、ゲームおよび教育市場に焦点を当てた販売戦略が成功に至り、100万台以上を売り上げた世界初のコンピューターとなりました。なお、日本国内でもコモドールジャパンを設立し、「VIC-1001」の名称で1981年に発売されています。蛇足ですが同年はNECの「PC-6001」が発売された年。VIC-1001よりも2万円程度高い価格設定でしたが、ホビー向けコンピューターという位置付けが衝突し、国内に根を張ることはありませんでした。かく言う筆者も最初に手にしたパーソナルコンピューターはPC-6001です(図03~04)。

図03 VIC-20上で動作する「Amok!」というゲームタイトル。詳細は不明です

図04 当時配布されていたVIC-20のカタログ。拡張デバイスとして5インチディスクドライブもサポートしていました

そして2年後の1982年。VIC-20の後継機として「Commodore 64」を同年8月に発売します。 CPUはMOS 6502をベースにアドレスピンなどを拡張したMOS 6510を採用し、当時としては広大な64キロバイトのメモリを搭載。特徴はVIC-20と比べてグラフィック機能を強化するために、GPU(Graphics Processing Unit)として「VIC-II」を実装し、サウンド面もPSG音源の一種である「SID 6581」を搭載。価格設定はPET 2001と同じく500ドル以上でしたが、当時のスペックを踏まえると安価な部類に含まれ、翌年から1986年までの間は年間200万台。最終的には1,250万~1,700万の台数(3,000万という諸説もあります)を売り上げたとか(図05)。

図05 1985年にスペインで発売されていたCommodore64専門誌「INPUT Commodore」

このように市場を席巻するコンピューターの開発には、能力を持つエンジニアの存在が欠かせません。VIC-20の構造設計を行ったシステムプログラマであるRobert "Bob" Russell(ロバート・ボブ・ラッセル)氏や、SID音源の開発者であるRobert "Bob" Yannes(ロバート・ボブ・ヤネス)氏、David A. Ziembicki(デイヴィッド・A・ジンビッキ)氏らはコンシューマ向けコンピューターを目指し、1981年1月から開発スタート。感謝祭やクリスマスを返上して翌年1月のCES(Consumer Electronics Show)で、Commodore 64をデビューさせました。なお、Yannes氏は同社を去り、シンセサイザー企業であるEnsoniqの起業に参加。同社が発売したサンプラー「Mirage」は音楽に詳しい方ならその名を耳にしたことがあるでしょう。

このマシンを手にしたゲーム企業は巨大なコンピューター市場を作り上げました。RFモジュレータを備えることで、通常のテレビにも接続可能(コンポジット映像出力も備え、専用ディスプレイで美しい出力環境を得ることも可能です)。また、正式なディーラーだけでなく、デパートや玩具店、ディスカウントストアでもCommodore 64を販売していました。そのためパーソナルコンピューターというよりも、"コンピューターとしても使用できるゲーム機"というホビー向けコンピューターという色合いが強かったのでしょう。

Commodore 64を中心としたパーソナルコンピューター市場の拡大は、1982年のクリスマス商戦に発生する"アタリショック"の遠因と言われています。そもそも米国のゲーム専用機市場は、1977年に登場したAtariの家庭用ゲーム機「Atari 2600(VCS)」が席巻していました。だが、前述のVIC-20やさらにパワーアップしたCommodore 64の登場で、粗製濫造(そせいらんぞう)で崩壊しつつあった同市場に打撃を加え、Commodoreがゲーム市場の覇者となりました(図06~07)。

図06 黎明期に楽しまれたアクションアドベンチャーゲーム「Pitfall」。1984年Activisionの作品です

図07 タイトーの「The Ninja Warriors」もCommodore 64に移植されました(Mastertronicが1989年にリリース)

その一方で開発能力を持つ個人はCommodore 64をベースに"デモシーン"なるものを生み出しています。以前「Amiga OS」について述べた時に"MEGADEMO(メガデモ)"なるムーブメントを紹介しましたが、その源流はCommodore 64の時代に生まれました。前述のとおりCommodore 64は強化したGPUやSID音源を搭載することで、同世代のパーソナルコンピューターと比べても群を抜く性能だったことから、多くのHackerがコーディングテクニックを競い、美しいアニメーションをリアルタイム描画するプログラムを公開。ここで蓄積された能力がCommodore 64をさらなる高みに押し上げたのでしょう(図08~09)。

図08 Future Crewが1993年に作成した「Second Reality」というデモをSmash DesignというチームがCommodore 64に移植しました

図09 Lepsi Developmentが2001年に公開した「Destination」。常にディスクアクセスしながら、Commodore 64としては美しいグラフィックを描いています

だが、Tramiel氏は社内動乱で同社を退社。同時に多くのエンジニアを引き抜いて、新たにTramel Technology(トラメル・テクノロジー)社を設立しました。同社がAtariからコンシューマ部門を買収し、Atari Corp(アタリコープ)に社名変更したのは以前の記事でも述べましたが、次世代コンピューターの開発に手をこまねいていたCommodoreは1985年に互換性を維持した後継機種「Commodore 128」を発表。一定のユーザー層には評価されましたが、16ビットCPUを搭載した「Amiga 1000」に敗退し、商業的成功を収めることはできませんでした。

その後も外観をCommodore 128に変更した「Commodore 64C」を1986年に、Commodore 64からキーボードなどを取り除いて家庭用ゲーム機に仕立て上げた「Commodore 64 Games System」を1990年にリリースしています。だが、多くの開発者が既に退社し、魅力的なハードウェアをリリースできなくなった同社が死に体になってしまうのは火を見るよりも明らか。また、後発組として登場したIBM PC/AT互換機やMacintoshなどパーソナルコンピューターの勢いに押され、1994年に倒産しました。

1980年代を一世風靡したCommodore 64に対し、熱い思いを持つユーザーは今も健在です。ネットで検索しますと、独自のハードウェア拡張を行うようなパワーユーザーが集まり、独自のコミュニティを形成していることが見て取れるはず。また、2004年7月にはCommodore International B.V.がCommodoreブランド名を使った一連の新製品を発表し、2011年にはCommodore USAがCommodore 64と同じ筐体(きょうたい)を用いたPC/AT互換機を発売しています。多くのユーザーに愛されたCommodore 64は、今後も当時のユーザーを中心に愛され続けるのでしょう(図10)。

図10 2011年に復活した「Commodore 64」の筐体(きょうたい)。自身でOSをインストールすれば、通常のコンピューターとして使用可能だそうです