インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景などを見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有する本コラム。今回は“団地の聖地”旧・赤羽台団地に建つ、「URまちとくらしのミュージアム」を見学した。
赤羽台団地と保存された団地建築
東京都北区赤羽。JR赤羽駅から徒歩5分ほどの高台に、「ヌーヴェル赤羽台」という総戸数2776戸の大規模集合住宅群が存在する。ここは、旧・日本住宅公団(現・UR都市機構)により建設された、総戸数3373戸からなる“赤羽台団地”の後継住宅だ。
かつては日本陸軍の被服廠があり、戦後はGHQに接収されたこの地に、米国からの返還後、旧・赤羽台団地が建って入居が始まったのは1962年(昭和37年)のこと。最新設備を備えた23区内初のマンモス団地として、完成当時は人々の憧れの的だったという。
旧・赤羽台団地は公団内でも特別視されていた団地で、建物の配置や設計にかなりの労力が注がれていた。他の団地にはない多種多様な住棟が立ち並ぶさまは、さながら“団地の見本市”のようだったそうだ。
高度経済成長期からバブル崩壊期までの長きにわたり、多くの人々の暮らしの舞台だった赤羽台団地だが、老朽化に伴い2000年(平成12年)以降に順次取り壊しと建て替えが進められ、現在のヌーヴェル赤羽台へと変容したのである。
歴史的な実物資料として取り壊さずに保存された旧・赤羽台団地の4棟の建物は、2019年(令和元年)に団地初の登録有形文化財に指定。2023年(令和5年)には、この保存住棟横に展示施設の「ミュージアム棟」が竣工し、全体が「URまちとくらしのミュージアム」として開館している。かつての“団地の聖地”は、日本の団地の歴史と文化を伝える施設として生まれ変わった。
屋外に当時のままの姿で保存されているのは、標準的な5階建ての“板状階段室型”と呼ばれる住棟が1棟。そして中央の階段室を挟んで住戸を“Yの字”型に配置した、“スターハウス”と呼ばれる住棟が3棟だ。
スターハウスは、この独特な形状により全住戸が南向きで、かつ互いの視線が交差しにくいというメリットがあったという。
ちなみに本記事の筆者は1970年代末〜1980年代初頭、小学生だった4年間を愛知県春日井市・高蔵寺ニュータウン内の岩成台団地で生活したことのある“公団団地出身者”のひとり。
保存されている旧・赤羽台団地の“板状階段室型”住棟は、かつて自分が暮らしていた団地とそっくりな外観であり、外から建物を眺めているだけで一抹の郷愁を覚えるのだった。
再現住戸にみる日本人の暮らしの変遷
このミュージアム棟では、完全予約制で1日3回、所要90分ほどのアテンドツアーを無料で開催。棟内には、同潤会アパートや日本住宅公団黎明期の4団地、計6軒の復元住戸が設置されている。
団地の設備はもちろん、内部の家具・調度品も当時使われていたものを配置し、人々の標準的な暮らしを再現しているのである。
その再現住戸をメインに、壁床4面スクリーン投影による映像展示や、模型やパネルをふんだんに使った展示などで、都市と集合住宅の暮らしの歴史や変遷が学べる仕組みになっている。
ガイドを務めるスタッフさんの誘導に従い、まず誘われたのは同潤会代官山アパートメントの再現住戸。1923年に発生した関東大震災後の住宅復興のため設立された財団法人同潤会が建設した、日本における初期の本格的コンクリート造の集合住宅である。
同潤会はこの代官山アパートメントや、現在の表参道ヒルズが建つ地にあった青山アパートメントをはじめ、1926(大正15年)年から1934年(昭和9年)の間、都内16カ所に集合住宅を次々と建設した。しかし、最後に残った上野下アパートメントも2013年に解体され、現存するものはない。
ミュージアム内には、同潤会代官山アパートメントの独身者用と世帯用の住戸が、それぞれ復元されている。
いずれも現在の普通の住宅と比較するとすべてがコンパクトで、あらゆる面で“質素”を感じたが、住居のつくりは非常に機能的で使い勝手が良さそう。
【動画】同潤会代官山アパートメントの世帯用用住戸
ただ、トイレや風呂、台所のつくりや置かれている家具調度品などを含め、1969年生まれの自分にとっても現実感のない古さであり、懐かしさというよりも、映画のセットに踏み込んだような、非現実的な感覚を覚えた。
もしもここに住んだら、どんな毎日になるのだろうと想像すると、なかなか愉快だった。
【動画】
自分にとってより懐かしさを感じたのは、次に案内された蓮根団地の再現住戸だった。
蓮根団地は東京都板橋区蓮根に旧・日本住宅公団が整備した36棟816戸の団地で、1957年(昭和32年)に竣工。1991年(平成3年)〜1993年(平成5年)に建て替えが進められ、現在は「新蓮根団地」として全棟が生まれ変わっている。ミュージアムに再現展示されているのは、蓮根団地に採用された2DKの一室である。
それまでの日本では、一つの部屋にちゃぶ台を出して食事をし、寝るときはちゃぶ台を片付けて布団を敷くという暮らしが当たり前だった。
しかし衛生面や家事の負担軽減を考慮し、公団住宅では京都大学の西山夘三教授が提唱していた「食寝分離」の考え方を採用。“2DK”は、その暮らしを実現してもらうための間取りだったのだそうだ。
【動画】蓮根団地の2DK住戸
僕が小学生時代に暮らしていた団地の間取りは、さらに進んで子ども部屋のある“3K”だったので、この蓮根団地の住戸とはちょっと違ったし、台所やトイレ、風呂の設備などももっと新しいものになっていたが、部屋の広さや各部屋の位置関係などは子ども時代の記憶に残る団地そのものであり、随所に懐かしさが感じられた。
団地に住んでいた頃の暮らしを思い出し、耳をすませば若かった両親や兄、そして自分の声までもが、ふと聞こえるような気がした。
晴海高層アパートと郊外のテラスハウス
見学ツアーは続いて、住宅公団初の高層集合住宅、10階建ての「晴海高層アパート」の再現住戸へと進んだ。
1958年(昭和33年)に竣工したこちらは、建築家・前川國男の設計によるもの。公団としては初めてエレベーターを採用した建物ということで、エレベーターの扉やカゴも移設・展示されていた。
そのエレベーターは、3階ごと(1、3、6、9階のみ)に乗り降りできる“スキップ形式”と呼ばれるもので、エレベーターが着床しない階の住人は、近い階で降り、階段を使って自分のフロアに移動しなければならなかったそうだ。
しかしエレベーターが停まらない階はその分、住居用の面積が広く、各住戸のつくりも大きかった。
ミュージアムには、エレベーターの停止階、不停止階両方の部屋が再現展示されていたが、いずれも従来の団地と比べると広々としていて住みやすそうだった。住宅公団の意欲作らしく内装もモダン。
現代人の目で見るとさすがに古臭くはあるが、当時の人にはとても新鮮に映ったであろうということが伝わってきた。
実際、この晴海高層アパートは、他の公団団地と比べると家賃が高く、社会的地位の高い住人が多かったとのことで、朝晩の通勤時間帯には外の道路に黒塗りの送迎車が行き交っていたのだそうだ。
【動画】晴海高層アパートのエレベーター不停止階住戸
そして再現住戸見学の最後は、多摩平団地の2階建て「テラスハウス」だった。専用庭のある長屋建て低層集合住宅を、公団ではテラスハウスと呼び、昭和30年代、主に郊外の団地で多く建設されていたのだそうだ。
一軒家に近いテラスハウスは、“団地感”が希薄ではあったが、子どもの頃に遊びに行った友達の家って、こんな感じのところが多かったなあなどと、個人的な感慨にふけったりした。
再現住戸の見学を終えて移動した「団地はじめてモノ語り」と名付けられたゾーンでは、安全で快適な団地暮らしを支えてきた住宅部品が壁一面に飾られていて、これもなかなかの見応えだった。
戦後の住宅不足を解消することが使命だった公団住宅の部品は、標準化された大量生産品。
だから僕のように人生の中で一度でも、日本のどこかで団地暮らしをした経験のある人にとっては、新聞受けやドアノブ、呼び鈴のボタンなどの住宅部品一つ一つが、やや錆びつきかけた記憶の奥底に眠るものだったりするのだ。
団地というのは、猪突猛進的に世界へと躍動する当時の日本で、“こう暮らしてほしい”あるいは“こんなふうに暮らしたい”という国民の意思が詰まったものだったのかもしれない。
ミュージアムの見学を終え、改めてそんなふうに思った。団地はただ手頃な住宅ではなく、大多数の庶民にとっての“生活の理想形”として提案されたものだったのだ。
そしてもう一つ改めて感じたのは、団地とはインフラである――、という当たり前の事実だ。都市の人口構造や家族形態、生活動線、福祉政策にまで関わる基盤設備として、国家が計画的に築いたのが団地だったのだろう。
団地は現在も形を変えながら、社会の一部として機能している。これからも時代に合わせて更新され、活用されていくべき「現役のインフラ」なのだと思う。