さびた車体から独特のオーラを放ついわくありげなクルマの歴史を調べてみると、戦前・戦後の日本を駆け抜けたある自動車メーカーに行き着いた。オオタの歴史と、戦後をわずかに彩ったクルマについて深堀りしてみた。
ダットサン最大のライバルだった「オオタ」
「オオタ」の歴史は1912年に始まる。太田祐雄氏が巣鴨に太田工場を設立した日だ。1920年には950ccエンジンの「フェートン」(馬車の車体形状でオープンカーの一形式)を製造し「オオタ1号」と名付けた。その2年後にはナンバープレートを取得し、公道を走行できる状態に。歴とした自動車メーカーとして小さな産声を上げたことになる。ただし、この時点では量産には至っていなかった。
1935年になると三井(当時の大財閥)からの資金協力を得て、業務を引き継ぐかたちで「高速機関工業」を設立。オオタ号の量産体制の構築に成功する。そのわずか2年後には「オオタOD型フェートン」を発表している。
フェートンという言葉の通りオープンカースタイルで、車体重量は680kg。4人乗りのボディに水冷直列4気筒、748cc(自動車技術会「日本の自動車技術330選」には736ccとの記載もあり)、最高出力12.5PSのエンジンを搭載していた。当時の最大のライバル車であったダット自動車製造「ダットサン10型」(1932年4月発売、ダットサンはのちの日産自動車)の最高出力10PSに馬力で勝っていたのだ。オオタOD型にはフェートンだけでなく、セダンやロードスターなどのモデルも用意し、ライバル車との差別化を図った。
高速機関工業は1952年に「オオタ自動車工業」へと社名を変更。その最後の年に生産されたのが、会場で展示されていた「オオタ乗用車 PA4型」だ。
草むらから発掘されたというその車体は2ドアタイプ。創業初期から数えても現存するオオタ号は数台しかなく、2ドアセダンはおそらく現存する唯一の個体ではないかとのことだ。
自動車黎明期に国産小型車クラスを市場としていたオオタ自動車工業だが、ライバルであるダット自動車製造よりも生産台数が少なく、ほとんど現存していない。草むらから発掘されたというオオタ乗用車 PA4型は、戦後復興期における国産の自動車史をひもとく貴重な1台になるといわれている。
戦前から戦後の復興期までを駆け抜けた自動車メーカー
戦後の自動車業界を支えたオオタ自動車工業創業者の太田祐雄氏は、1954年に開催された「第1回 全日本自動車ショウ」(のちの東京モーターショー)の会期中に68歳で死去。経営危機に陥っていた同社は、タクシー会社の発注によって開発したといわれる4ドアセダン「オオタ・セダン PK1型」を発表して巻き返しを狙った。エンジンの静粛性や耐久性などにこだわって製造したクルマだったのだが、一般ユーザーにはあまり売れなかったそうだ。
その後は改良モデル「PK2型」に続き、1956年には「PK3型」を発表。「第3回 全日本自動車ショウ」に出品したものの、その年に製造中止となってしまった。経営の立て直しはうまくいかず、1962年に会社は破綻。PK3型がオオタ自動車工業最後の乗用車モデルとなった。
なお、自動車やフォークリフトなどの産業機械用エンジンの製造を手がける現在の「日産工機」は、自動車メーカー「日本内燃機関」とオオタ自動車工業が合併した「東急くろがね工業」を前身とする企業だ。オオタ自動車工業の技術は、現在も受け継がれているともいえるだろう。
展示されていたオオタ乗用車 PA4型は見ての通り走行できる状態ではなかったが、その車体を見ているだけで、戦後復興期の日本の町並みが想像できるような気がした。いつか走っているところを見てみたいが、さすがにそれは無理か……。