パナソニックがプラズマディスプレイパネル(PDP)事業の終息を発表した。パナソニックの強みが生かせる技術として、プラズマテレビ市場をリードしてきた同社はこれまでどんな歴史をたどって来たのだろうか。その歴史を振り返ってみる。
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パナソニック(旧・松下電器産業)がプラズマディスプレイパネル(PDP)の生産を開始したのは、1970年代のことであった。1985年にはラップトップPC向けの「モノクロームPDP」の生産を開始、さらに1991年12月には、NHKと共同開発契約を結び、「DC型カラーPDP」の開発を開始した。
パナソニックが、世界初となるワイドプラズマテレビ「プラズマビュー TH-26PD1」を発売したのは、1996年2月のことだ。26型サイズにも関わらず、価格は98万円(税別)と高価であったが、いち早くテレビ用にPDPを展開したことは、同社がこの分野で高い技術力を示す象徴的な出来事となった。
1997年には業界初となる42型ハイビジョンプラズマテレビをNHK技研と共同開発。この実績をもとに、1997年10月にはワイドプラズマテレビ「プラズマビュー TH-42PM1」を発売。価格は150万円(税別)だった。
NHK技研と共同開発したハイビジョンプラズマテレビは、翌年長野で開催された長野オリンピックで公開展示され、長野オリンピックではハイビジョン中継が行われたこともあって、ハイビジョンに対応したプラズマテレビは、世界中からの注目を集めることになった。
1998年8月にはPDP事業部を発足。デバイスからセットまでの一貫開発、生産体制を構築する。同事業部の最初の製品として、同年12月には「プラズマ タウ」のブランドを冠した「TH-42PM2/S」を発売した。42型ワイドプラズマテレビのTH-42PM2/Sの価格は150万円(税別)という設定のままであり、まだ高価であることには変わりはなかった。1999年には、業界最大となる60型PDPを発表。大画面化では液晶に大きく先行する形となった。
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