4.第5世代「K5」:完全独自アーキテクチャK5 - AMDの攻めの姿勢が裏目に

Am386、Am486の成功で自信を得たAMDは大きな賭けに出る。インテルCPUとの互換性(ピン互換)は維持しながら、従来のインテル・アーキテクチャとはまったく異なる独自アーキテクチャによるCPU設計を目指した。当時はパソコン用のCPUはx86に代表されるCISC(Complexed Instruction-set Computer)に決まっていたが、その他の多くの組み込みアプリケーションに使われるCPUは群雄割拠の時代であった。こちらではRISC(Reduced Instruction-set Computer)の手法が主流であり、SPARC、MIPSなどのアーキテクチャに伍して、インテルのi960(80960)、AMDのAm29000など先進的なアーキテクチャを備えたCPUがしのぎを削っていた。その中でもスーパー・スケーラ技術に一日の長があるAMDのAm29000は、その優秀性からパソコン以外のアプリケーションに急速に浸透していったのである。AMDはこの優秀なスーパー・スケーラ技術をx86に移植して、当時第5世代CPU「Pentium」でパソコン市場を主導していたインテルに対し一発逆転を狙っていたのだ。その野心的なプロジェクトがK5である。この辺の事情は「K5の挫折とK6の登場」をご参照されたい。

事実、K5で実装されたスーパー・スケーラ技術はインテルが後の第6世代CPU「Pentium-Pro」で採用することになるが、この先進的なアーキテクチャを製品化するプロセス・テクノロジーが付いてこなかった。AMDのCEOサンダースが後に自身が、「インテルが4年でやったことを、AMDは2年半でやろうとしていた」、と述懐しているように、"同じクロック周波数のインテルの相当製品よりも実性能で30%の優位性を持つ"、という目標を掲げたK5プロジェクトはあまりにも野心的で、AMDの攻めの姿勢が裏目に出る結果となった。

このプロジェクトに大きく期待を寄せていたサンダースの落胆は推して図るべしである(「K5の挫折、サンダースの胸に去来していたもの」)。しかし、K5が失敗と分かった後のサンダースの決断は早かった。当時無名のNexGenの買収を即座に決めて、第6世代でのAMDの復活を見事に果たした。

結局失敗作ではあったが、私はK5については大きな思い入れがある。長い目で見ればK5でAMDが培った独自技術は後の傑作CPUアーキテクチャであるK7の基盤を築いたという点でまったく無駄ではなかったと思う。

すでにトランジスタ数は500万個に近づき、プロセスルールは完全にサブミクロンの世界に突入していたので、長年使っていたミクロンの表示はやめて、ナノメーターという表示に変わっていったのもこのころであったと記憶している。

発表:1996年
ビット幅:32ビット
動作速度:75-116MHz
トランジスタ数:430万個
プロセスルール:0.5μm(500nm)→0.35μm(350nm)

AMD-K5(Am5k86):PR-133との性能表示があるが、実は動作周波数は100MHzであった。インテルのPentiumとの実アプリケーションでの性能比較では133MHz相当という意味である

5.第4.5世代「Am5x86」:AMDのマーケティングチームがひねり出した苦肉の策

K5の失敗はAMDにビジネス上の大きな後退を強いる結果となった。インテルはPentiumのプロモーションに躍起になり、まだ市場に存在していた486ベースのパソコンを"時代遅れ"とするキャンペーンを展開していた。しかし、AMDが大きく期待を寄せたK5は失敗が明らかになり、AMDは次期に控えるK6の登場まで何とかビジネスを継続しなければならなかった。ここでAMDのマーケティングチームはうまいことを考えた。4倍速までクロック周波数を上げたAm486の内蔵キャッシュを増やして、何とかPentiumに対抗できないかと考えたのだ。L1キャッシュを従来の8KBから16KBの倍に増やしたAMDの486は実際非常に性能の良いCPUに仕上がった。しかし、これを486で出してしまうと、いくら実性能が良くてもPentiumのブランドにはかなわない。何しろ時代は"4"から"5"に変わっているのだから。それでは、これを5XXでブランディングしてしまおうという、AMDのマーケティングチームの苦肉の策の結果がこの「Am5x86」である。「中身は486コアであるが、性能はPentiumなみ」という苦しい説明ではあるが一応"5"の冠は持っている(このストーリーで敢えて4.5世代と呼んでいるのはこのためである)。このCPUはAMDの技術を語る歴史ではあまり触れられないものであるが、根っからのマーケティング人間の私にとっては思い出深いものである。実際このCPUがK6が登場するまでの間AMDをしっかりと支えたのは紛れもない事実で、K6ブレークの前のAMDの苦しい事情を憶えているAMDの営業マンたちは懐かしく思うのではないか。この辺の事情に関しては拙稿「マーケティングで何とか持ちこたえるAm5x86登場」をご参照されたい。

発表:1996年
ビット幅:32ビット
動作速度:133MHz
トランジスタ数:160万個
プロセスルール:0.35μm(350nm)

Am5x86-P75:この写真ではAm5x86のマーキングの下にAm486DX5-133W16BGCとある。さすがにあからさまに第5世代だけでを押し通すのはやり過ぎということで、"実は486のコアですが、133MHzの高速で16KBのL1キャッシュを内蔵しているのでPentium 75MHzと同等の性能が出ますよ"という涙ぐましいマーケティング・メッセージが込められている。この後この製品が市場に受け入れられるとAMDX5-133というマーキングをしたものも現れ、同時にK5コアのAm5k86として販売された製品と紛らわしいという批判も受けたが、実際は圧倒的にAm5x86の方が売れていた

6.第6世代「AMD K6」:真打登場!! ソケット7最強のCPU

K5の失敗、そしてそれに代わるK6の登場はまさに劇的であった。AMDのCEOサンダースは、K5が失敗と見るや、すぐさま当時まだベンチャー企業であったNexGenを買収して一年後に見事K6のリリースでAMDをx86市場に復帰させた。当時無名のNexGenはシリコンバレーにある小さなデザインハウスであったが、確かに優秀なエンジニア、マーケッターがそろっていた。拙稿「AMD、NexGen社買収」、に書いたように、この起死回生のプランが発表された時、私も含めて、市場の多くの人々は「AMDはもうおしまいだ」と思った。サンダースのプランは大きな賭けではあったが、結果的に大成功を収めた。シリコンバレーにある得体のしれないパワーの源はこの"ハイリスク、ハイリターン"の成功物語が継続されていることにあると思う。もちろん成功しているケースだけが表に出てくるのであって、その陰には何百倍もの敗れ去った者がいる。

私はAMDでK5の大失敗からK6の大成功という経験ができただけでも幸運だったと思う。K6はインテルのトップスピードを出し抜く233MHzの高速で登場し大きな注目を浴びた。その後も、インテルが初代PentiumからスロットベースのPentium IIに急速に移行する中、Pentiumのインフラであるソケット7のバススピードを66MHzから100MHzに高速化したスーパー7を維持しながら、性能をどんどん上げていった。このころから自作パソコンユーザーが急速に増えて、AMDのK6は大きな期待を担い、PentiumとPentium II、2つのCPUを相手に十分に善戦した。(「自作ユーザーを歓喜させたK6をご参照)。

その後もK6は進化を続け、SIMD命令を備える「K6-2(「ソケット7 インフラ最強のCPU K6-2登場」)」、「K6-III(「悲劇のCPU K6-III」)と発展し、AMDの独自技術が開花するK7へとAMDを導いた大きな役割を果たした。

発表:1998年
ビット幅:32ビット
動作速度:266-550MHz
トランジスタ数:930万個
プロセスルール:0.25μm(250nm)

K6シリーズで最も売れたK6-2。K6アーキテクチャはいきなりインテルを出し抜くK6-233MHzで登場し、最終的には550MHzまでスピードを上げた。ここまでスケーラブルな優れた独自アーキテクチャを開発したNexGenのエンジニアたちの心意気と、そのアーキテクチャを見事な製品化で支えたAMDのプロセスエンジニアたちの情熱が感じられる

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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