テキサス州AustinにあるAMDのプロセッサ設計開発チームは、開発コードネームK5と呼ばれる新型CPUの開発に悪戦苦闘していた。なにしろ、K5はIntel互換ではありながら、今までのAm386、Am486とは全く違うAMD独自の基本アーキテクチャに基づいて設計されていた。

当時のAMDの主力工場、テキサス Austin市のFab25 (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」)

前回のシリーズで386・486のリバースエンジニアリングの話を書いたが、K5は言ってみれば第1シリーズで書いたK7の先祖ともいえるような、AMD独自アーキテクチャのCPUの最初の製品であった。当時、AMDはIntelアーキテクチャとは互換性のないRISC(Reduced Instruction Set Computer)アーキテクチャに基づく高性能CPU、Am29000シリーズを既に製品化していたが、このCPUはパソコンの心臓部であるx86命令セットを備えたものとは完全に別系統のもので、主にレーザープリンタ、ネットワーク機器のような電子機器の埋め込み用のプロセッサとしてはかなり成功したが、これらの埋め込みCPUの市場規模はパソコン用のCPUのビジネスとは比べ物にならないくらい小さく、AMDの屋台骨をメインビジネスとして支えるものとはなりえなかった。

当時、埋め込み市場を席巻したRISCアーキテクチャに基づくAMDの自信作Am29000 (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」)

前述のように、パソコン市場が爆発的に広がり、パソコンが電子機器市場のメインプラットフォームとなってくると、Intel互換路線で大きく成長したAMDは、CPU開発の方向性について大きな選択を迫られることとなった。すなわち、既にAm386、Am486のリバースエンジニアリングで優れた開発能力を発揮したAMDのCPU設計部隊と、独自路線でPC以外のアプリケーションで業界をリードしていたAm29000の設計部隊、という全く設計思想が異なる2つのグループのフォーカスをIntel互換のパソコン用の独自設計CPUの開発に集中させることとなったのである。この作業はAMDの内部では技術上、組織上大きなチャレンジであった。

  1. Intelは既に第五世代Pentiumプロセッサを市場投入しており、爆発的に成長するパソコン市場を支える新しいアプリケーション(ゲームソフトなどに代表されるような)を高速に動かすための新たな機能を次々に搭載してくる。
  2. AMDがこの状況に対応し、市場の期待に応えるためには、もうIntel製品のリバースエンジニアリングでは追いつかない。AMD独自の、Intel製品を凌ぐ優れたアーキテクチャで対抗する以外に生きる道はない。しかし、Intelへ完全ハードウェア互換、マイクロソフトのWindowsへの完全ソフトウェア互換という条件は譲れない。
  3. 想定する性能のターゲットは、Pentiumと同じクロック(動作周波数)であればその30%以上。
  4. AMD内部では今まで2系統が並行して走っていた、RISC系のAm29000開発チーム、Intel互換のx86系の設計チームを統合し、お互いに培ったアーキテクチャ開発、プロセッサ設計技術と経験を1つにまとめ野心的なK5というプロジェクトを成功させなければならない。
  5. 例によって、設計完成までの開発期間には全く余裕はない。

Intelが4年で開発したものをAMDは2年半で仕上げようとしていた

K5プロジェクトの主目的は技術上のリーダーシップをIntelから奪うことであった。このコードネームはJerry Sanders自身が名づけたものである。当時流行っていた今は亡きクリストファー・リーブ主演の映画「スーパーマン」に登場するスーパーマンの故郷である星の名前クリプトンの頭文字であるKを冠したK5は確かに、AMDにとってかなり野心的なプロジェクトであった。先進のスーパースケーラ技術など、実はK5の方向性は結果的にIntelの第五世代のPentiumというよりは第6世代のCPU(結果的にPentium II)で実現された要素をいち早く取り込もうというものであったが、いかんせん難易度が高すぎた。後にSanders自身が述懐するところによれば、誇張もあるだろうが、"Pentiumを開発するのにIntelが4年かかったところを、我々はK5を2年半で仕上げようとしていた"、のである。

基本アーキテクチャの発表からリリースまでスケジュールが遅れたK5。革新的な技術であったがタイミングが遅れてしまい、AMDの悲劇のCPUとなった (提供:長本尚志氏)

1993年にプロジェクトが発表されたが、製品リリースは1996年まで遅れに遅れた。大きな成功のためには大きなリスクをいとわないという、AMDの基本的な企業哲学が結果的には裏目に出てしまったというわけだ。

その後の話で聞いたことであるが、CEOのJerry Sandersはいくら待っても開発が終わらないK5プロジェクトについて現場の事情を聴取するために極秘でAustinに赴き、プロジェクトのトップから、現場のエンジニアに至る何層にもわたる組織のめぼしい人物に直接会い話を聞いた。そこでJerryは直下の開発責任者から聞いていた話とは全く違う話を聞かされた。いわゆる"裸の王様"状態になっていたわけである。隠密での現場からの直接の事情聴取の結果、Jerryの判断は"K5プロジェクトは大きな問題に直面している"、ということであった。冒頭のハワイのAMD Sales Conferenceがあった1995年の初め、あるいは1994年の末の話であったと推測される。AMDは絶体絶命の危機にあったわけだ。AMDにはこの厳しい状況に対応する起死回生のプランが必要であった。

(次回は8月3日に掲載予定です)

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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