上野公園には「西郷さん」だけでなく、「ミニ清水寺」「大仏」もある

上野公園の歴史は意外と知られていない。江戸時代にはこの地は徳川家の菩提寺の1つである寛永寺だった。現在の寛永寺は東京藝術大学の北にあるが、最盛期には上野公園を中心におよそ30万5000坪に及ぶ広さがあったのだ。大仏あり、京都の清水寺を模した清水観音堂あり、五重塔あり、東照宮ありとそんな場所だった。

(左)「西郷さん」で親しまれる上野公園の西郷隆盛像。(右)京都・清水寺を模した「清水観音堂」

幕末には新政府軍と幕府側との戦争によって焼け野原になったが、明治になると近代化による産業革命の波が一気に押し寄せ、上野公園では産業育成のために1877年「第1回内国勧業博覧会」が開催された。

その後東京国立博物館の前身となる「博物館」が内幸町から移転、岡倉天心によって東京藝術大学の前身となる「東京美術学校」が設置されるなど、上野公園には近代国家を支える文化施設が集約された。この頃に「上野動物園」や「西郷隆盛像」といった上野公園のシンボルができる。

関東大震災時には、仮設住宅1万棟が建設され、配給所や託児所、病院なども設置された上野公園だが、その後 「東京府美術館(現・東京都美術館)」、「東京科学博物館(現・国立科学博物館)」が開館。

第二次世界大戦では、動物園の動物が処分されたり、不忍池が水田として利用されたが、終戦後には上野観光協会の前身組織である上野鐘声会が、荒れ果てた上野の山を回復させるため、1250本の桜の木を植林して景観を蘇らせ、水田として利用されていた不忍池を、元通りの姿へと戻した。さらに、国立西洋美術館や東京文化会館などができ、上野は現在、文化の集積地として日本で一番の場所になっている。

「日本の文化の中心」から「世界の文化の中心」を目指す

政府は、東京五輪が行われる2020年に向けて、様々な文化プログラムの展開を図ることで、日本を世界の文化交流の拠点として躍進させたいとしている。それにふさわしい場所として、白羽の矢が立ったのが上野公園。成田空港からのアクセスもよく、外国人観光客にとっても足の運びやすいといった潜在能力の高い立地に、先に述べたとおり、江戸時代からの歴史的資源や、自然環境、そしてなにより東京藝術大学、博物館美術館、音楽ホールなど文化的な機関が集結している場所だからということはいうまでもない。ロンドン、パリ、ワシントンD.C.と比較しても遜色がなく、世界文化遺産に登録されているベルリンの博物館島に匹敵するポテンシャルを持っていると政府は期待を寄せている。