「普通じゃない」とは何事か

先日『ハジの多い人生』というタイトルの本を出した。「ハジ」はハジッコのハジ、中心に対する周縁という意味である。刊行後、多くの人から「あなたの人生は、どちらかというとハジではなく中心の側ではないのか?」と指摘を受けた。客観的な意見は大変参考になるが、なかなか説明が難しい。

同書の中で、半生を振り返るのに「ハジ」とともに「普通」という言葉も用いた。私が今まで歩んできた人生は、王道の真ん中というよりはハジッコに位置するけれども、さして特異なわけでもなく、まぁ「普通」の範疇であろう、少なくとも自分ではそう信じている。面白いことに、こちらについては「いや、あなたは普通じゃない」と指摘を受ける。つまり、自分では「普通の」「ハジッコ」辺りと認識している立ち位置が、或る人々の目には「普通ではない」「中心」だと、そう見えるようだ。

「そんなものはハジのうちに入らない、もっと不幸な人は世に大勢いる」「恵まれた環境をそうと認めずに自慢しているだけだ」……私は「ハジ」すなわち「不幸」だとは思っていないのだが、そんな匿名の批判も目にした。我々より優遇された人間は、我々をさしおいて物を書くべきではない。何か書くならば我々の不幸に配慮すべきである。他と比較することでしか己の幸福を量らない、顔の見えない誰かにそうやって罵られている気分になり、途中で閲覧をやめてしまった。与えられた境遇に即した振る舞いをしない人間は「おかしい」ということだろうか。彼らから呈示される、あるべき自分の「正解」は、我がことながらどうにもピンとこない。

「普通」とはいったい何なのだろう。たとえば「普通の結婚」という言葉から、どんな結婚を思い浮かべるだろう。誰もがそれぞれ頭の中で望みながら、誰もその実態を目にしたことがないもの。自分を、或いは他人を、ぴったりその状態へすり合わせようと試みても、どうしたって完全には一致しようがないもの。私が思い描く「普通」は、いつもそんなふうに捉えどころがない。中心はぽっかり空洞になっていて、周縁だけが踏み固められているようにも感じられる。

みずいろの年賀状

今年の正月、結婚報告を兼ねた年賀状を出そうかやめようか迷った先が幾つかある。最後まで迷っていたのは、昔ちょっとだけ男女関係にあった相手だ。宛先不明で戻ってきたら居心地悪いけれど、投函してみないと戻ってくるかどうかもわからない。思いきって出した年賀状は戻ってこなかったが、返事も来なかった。昔のままの住所に変わらず建っている、しゃれた一軒家のポストに音もなく吸い込まれた年賀状を想像する。

はっきり言って結婚を意識するほどの深い仲ではなかったが、当時の私は自分や他人の恋愛およびそのゴールとしての結婚のことで頭がいっぱいだった時期で、ご多分に漏れず、男との結婚生活を空想することもあった。家財道具を運び込んでその一軒家に引っ越し、玄関先で毎朝の郵便物を取り込む自分を想像してみたことだってある。ポストの形状を憶えているのはそのためだ。

男には、私とそう年齢の変わらない娘がいた。友達と遊び歩いてほとんど家に寄り付かず、僕のことは歩く財布としか思っていないのだとこぼしていたが、板についた父娘二人暮らし、口で言うほど仲が悪いようにも思えなかった。しゃれたトイレを借りると小さな本棚が備え付けてあって、少女漫画が整然と並んでいた。読みながら用を足し、この家に住んでずっとこの漫画の続巻を読み進める暮らしを考えてみた。こちらはポストのようにはうまく想像できなかった。

娘を見かけたことは数度、音に聞くほどの不良娘とも見えず、ふらりと帰宅しては、来客にきちんと挨拶をして自室へ下がった。私と彼とがいくら深い仲になっても、私と彼女とが義理の母娘になることはないだろうな、と思った。それを確認するように、私と彼女とは男を挟んできちんと挨拶をして、目礼のふりをしながら幾度かじっと見つめ合った。深い仲ではなかった我々よりさらに浅い仲である共通の友人から、娘の成人と前後して再婚したらしいと聞いたけれども、私は挨拶状を受け取っていない。

隣の芝生は、養生中

「自分と年齢の変わらない娘がいる男? そりゃあ無理だよ! うまくいきっこないよ!」当時、近況を話した友人たちからは、判で捺したようにそんなリアクションが返ってきた。「ただ結婚したいだけなら、もっと他に誰かいるでしょ?」という無根拠な慰めが、必ずセットでついてきた。

私や私と同年代の女友達は、自分や他人の恋愛およびそのゴールとしての結婚のことで頭がいっぱいだった時期である。相手はいないけど、ただ漠然と、結婚したいだけ。といって、誰でもいいわけじゃない。ただ漠然と、頭に思い描く捉えどころのない「理想の結婚」があり、それに近いか遠いかで異性を値踏みするようなところがあった。年の離れた子連れのバツイチは「遠い」相手だというのが、満場一致の判定だ。

今となっては、「満場一致」の「場」ってどこだよ……とツッコミたくもなる。あれから幾星霜、幼馴染の一人は実父より年上の男性と結婚した。嫁ぎ先でうんと年下の義姉に敬語を使われて困る、と言っていた女友達もいる。ついこないだまで童貞だった知り合いは、初婚と同時にいきなり一児の父になった。字面だけ見れば私の周囲は「うまくいきっこない」のオンパレードだが、大変めでたいことに、かなりの好打率をもって、なべて世はこともなく、不思議なほど幸福に、うまいこと回っている。

まだ産んでもいない我が子が成人する未来なんて到底想像もつかないが、もしそれが訪れるとして、そのとき配偶者が不在だったとして、私はどうするだろう。一度しかない人生、次は全然別のことに挑戦してみよう、と言い出すに違いない。たとえば、子供とそう年齢の変わらない相手と再婚してみるとか? 悪くない。どんな状況でもうまくやっていける、そう思ってやっていくしかあるまい。今の私がせっせと踏み固めている「場」は、そんな捉えどころにある。

私があの男に挨拶状を出したのは、刷りすぎた年賀ハガキが余ったからだが、私があの男と結婚しなかったのは、礼儀正しい不良娘のせいではない。もしかしたら、もしかすると、うまくいっていたかもしれないのだ。しかるべき手順を踏んで、ハジッコからそれぞれに人生を踏み固めて、たとえ王道の真ん中の「普通の結婚」ではなかったとしても。

他山の味以て攻むべし

若いうちに結婚して離婚し、もはや再婚してからの年月のほうが長くなった知人が、ポツリと漏らしたことがある。「正直な話、前の奥さんのほうが、料理が上手かったんだよね……」。初婚のときには気づかなかった、仕事から疲れて帰宅すると、妻が用意したあたたかくておいしいごはんが自動的に出てくるのが当たり前だと思っていた、のだそうだ。

当たり前だと思っちゃいかんだろう、と指摘するまでもなく若く短い結婚生活は終わった。現夫人の料理の腕前は「並」で、同じメニューが食卓に並ぶと、心の中でついつい前夫人の味と比較してしまう、のだそうだ。「こんなこと口が裂けても言えないけど、事実は事実」で、子供たちが年頃になったら母親任せにせず、きちんとした料理教室に通わせたい、と言っていた。

どうあっても自分で料理するつもりはないんですね、とツッコミたくもなったが、「これが初婚だったらよかったんだよなぁー」とボヤく姿を見て、その気も失せてしまった。舌が憶えている「特上」と比較するから「並」になってしまうが、そうした相対評価と関係なく、今の幸福は厳然と幸福である。自分がついつい他と比較してしまうから、「普通」の範疇にあるはずの出来事がまるで「不幸」に錯覚されるだけなのである、と。そうわかっていてボヤくのである。外食したっていいのに、毎晩、妻の手料理を食べながら、「全体的に塩っけがキツいんだよねぇー」と。

「普通の結婚」という言葉から、かつてはあの、年の離れた子連れのバツイチ男を思い浮かべていた。私の代わりに、どんな「普通」が彼の玄関先で郵便物を受け取るのだろうかと。最近はこの、沈黙は金と知る美食家で愛妻家の男のほうを思い浮かべるようになっている。「普通」なんてどこにもありはしないけど、それによく似たものは、努力して作ることができる、と。ま、ごちそうさまです。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海