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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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人は、街でどれくらい外国人に道を訪ねられるのだろう

英会話を習う人の動機として「街で外国人に声をかけられた時に道案内できるようになりたい」というものがあるが、なかなか信じがたい。「六本木ヒルズに行きたいのだが……」と問われ、「3分ほどまっすぐ行って、交差点を左に行くとあります」と英語で答えるために、毎月たいそうな月謝を払っている人たちがいるとも思えないが、その動機を頻繁に耳にする。来たるその日を待望しながら、今週も英会話に通っているのだろうか。

果たして人は、街でどれくらい外国人に道を尋ねられるのだろう。自分の記憶を必死に辿って、おそらく水増しして5回ほど。その大半は、地図を片手にしていた。英語の教科書のサンプルでは、「すみません、スーパーマーケットまでの道を教えて欲しいのですが」だが、実際には、観光名所や行き着くべき建造物が定まっており、地図を指差して、ここへ行きたいのだが今はどこにいるか、を尋ねてくることが多い。持っている地図を指差し、「ナウ」が「ヒア」で、行くべき方向を指差し「ストレート」、確認のために地図を指差して「ストレート」。この道案内を受けて「オッケー、サンキュー」とにこやかな笑み。英語の教科書の例文では、この前後に、おすすめのブレックファーストのお店に行きたいだとか、キャサリンのお姉さんが留学先から帰ってきていて昨日の夜はちょっとしたパーティを開いていたのよ、などの報告が重なるのだが、実際は「ヒア」「ストレート」でおおよそ済んでしまう。

エリックは、夕暮れでたくましそうに出かけていくのだ!

ネットの自動翻訳の精度が格段に上がっている。この機能を手にした中学生は、英語の授業をますます適当にこなしていくのではないかと心配になりつつも羨む。中学時代、英語の授業では、座席順に英文の和訳を読まされるのが通例となっており、席順から先読みしてここら辺を訳すことになるだろうという部分のみを予習しておく。

先生が自分より前の誰かに「ここは短いから、2文訳して」と命じれば、自分の訳す場所もズレることになる。それを見越して前後の何文かを訳しておかなければいけない。辞書で単語の意味を調べ上げるだけでは「その時、エリックは、夕暮れでたくましそうに出かけていくのだ」といった謎めいた和訳になるので、用法などを調べ、授業で発表できるレベルに仕上げなければならない。しかしながら今の自動翻訳の水準であれば、エリックがたくましく出かけていくこともなくなるだろう。

衛星中継の回線が危うい時に

ボーダーレスとかグローバルとか技術革新といった言葉が指し示す現場に立ち会うことはほとんど無いし、そういった波が押し寄せていること自体にストレスを覚えてしまうものだから、グローバルや技術革新に呆れ顔を投じられる場面がやってくると、身を乗り出してしまう。テレビを見始めるようになってかれこれ30年、その間、もしかしてたいして技術が革新していないのではないかと思われる技術に、「衛星中継の回線の悪さ」がある。よほど電波の確保が危うそうな地域ならばまだしも、大都市のビル内や、人通りの多い街並からの中継であっても、回線が悪くなる。地球の裏側にあるような農村からもメールできたり、宇宙からツイートできたりするのに、東京とニューヨークを結ぶ衛星中継はまだまだ危うかったりする。

スタジオから先方に投げかけた言葉が数秒遅れで届く場合、その秒数を待ち、あちらが反応するのを待つべきなのだが、その数秒を待てないキャスターが多い。つい、「聞こえてますか?」の一言を入れてしまう。すると「ワシントンでは本日、」と話し始めたタイミングでその「聞こえてますか?」が届き、「ワシントンでは本日、大統……はい、聞こえております」と話が断ち切られてしまう。「では、お願いします」とキャスターが添えると、それが届くのも勿論数秒後だから、「ワシントンでは本日、大統領が15日に発表した財政……え、あっ、はい」ともう1回止まってしまう。そのやり取りが1回で済む時もあれば、3回も4回も続く時がある。どちら主導で持ち直していくかの検討が難しく、いつまでも噛み合ない。

回線早漏と回線遅漏

映像をシャットアウトする権限は当然、日本のスタジオ側にある。会話すらできないほど回線の具合が悪い場合、スタジオの対応としては大雑把に2つに分かれる。すぐに切るか、回復すると見込んで引っ張るか。この後者の判断に立ち会った時、私はテレビの前に構え、もっといけ、頑張って引っ張れと、かぶりつく。「回線が悪いとすぐに切ってしまう」ことを暫定的に「回線早漏」と名付け、いつまでも続けることを「回線遅漏」と名付けておくが、回線早漏の場面では、もうちょっといけただろうに、と思うことが少なくない。2往復くらいでダメだからといって諦めてしまう。「すみません、回線の具合が悪く、失礼致しました」とスタジオに戻してしまうのだ。

衛星中継の醍醐味とは、回線遅漏の腹の据わり方にある。まったく伝わっていない様子が見えるのに、その映像を切らない。中継先のキャスターは、カメラの隣にいるディレクターに向かって「入ってる? 入ってる?」と心配そうに話しかけているようだが、その声もやっぱり聞こえない。まったくの無音具合に「これはどうやら改善の余地はなさそうだ」とテレビの前では認識しているのだが、それでもスタジオには戻さない勇ましさ。

そのうち届くはず、という精神論の稼動。でも、解決に向かう道は確実に技術論だ。願えば叶う、スピリチュアルな姿勢が、回線遅漏を継続させる。全会一致でもう無理というレベルでも、今度こそともう一度と呼びかける。技術ではなく、祈り。こっちも、届いて、と祈る。声出て、と祈る。やっぱり届かない。伝えるべき情報が届かなかったという意味では謝罪するのが全うなのだろうが、皆々の徒労感を勝手にシェアしているこちらは、別に謝らなくっていいのに、と寛容になる。

「ボビーが言うのよ。おいおい、そのセメントでウチの壁でも修復しちゃうか」

回線が繋がらなかったのでスタジオに戻した時、その相手の映像が、スタジオセットに組み込まれたモニターに映っている場合がある。視聴者に軽く謝っている際に、あっちはまだまだこっちと繋げる方法を模索している。必死だ。それもそのはず。あっちにはあっちの事情がある。下記は妄想。アメリカに赴任してわずか半年の記者が愚痴る。

「あっちとこっちには時差が13時間もあるの。そっちの昼過ぎのニュースのために、こっちは夜中に起きているわけで。同じアパルトマンに住む、友人夫婦のボビーとエミリーからディナーに誘われたってのに、今日は生中継があるからと断腸の思いで断っていたの。スタジオは、いっつも、中継先を軽視する。繋がらなかったら繋がらなかったで、スタジオで補足説明を続ければいい。でもこちらの気持ちも少しは考えてくれないと」

「こっちに来てからというものの、慣れない海外暮らしに戸惑う私を温かく迎えてくれたのがボビーとエミリーだったの。転勤してきて3カ月くらい経ったころだったかな、エミリーが言ってくれた。『ようやくサチコが笑うようになったわ。あなた、日本からやってきたばかりの時、セメントのように固まってたもの。ボビーが言うのよ。おいおい、あのセメントでウチの壁でも修復しちゃうか、なんて。2人で大笑いよ』。まったく、本当に嬉しかったんだから」

それは晴れ舞台なんだ

回線を切られた側の、時差ありまくりの土地でカメラの前に立った誰かの一日を考えてみる必要がある。私たちは、衛生回線がうまくいかなかったときに、「まっ、よくあることだし」と取り立てて怒るようなことはしない。でも、あっち側の人にとってみれば、中継のある日は、確実に特別な日である。何がしかの有事に対応するために、現地から貴重な情報を盛り込んで伝えなければいけないのだ。でも繋がらない。

技術的な事なのに、帰り道は自己嫌悪に陥るのではないか。はぁ、私、なにやってんだろ。私さえ信頼してもらっていれば、もうちょっと繋いでくれていたかもしれないのに……。向いていないのかな、と母親へ電話。もしかして、回線早漏は人の運命をねじ曲げて来たのではないか。繫がりの悪い回線を見ると、まだまだ引っ張ってやれ、と思う。だって、その人は、ボビーとエミリーからのディナーの誘いを断ってまでカメラの前に立っている。それは晴れ舞台なんだ。

<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。

イラスト: 川崎タカオ