2015年3月のダイヤ改正で、上野~札幌間の寝台特急「北斗星」の定期運行が終わる。今後は「あけぼの」と同様、臨時列車として細々と運行されるという。ブルートレインの終焉が見えたいま、ブルートレインブームの時刻表をたどってみた。なんと、東京駅からは最大13本ものブルートレインが発車していた。

東京~西鹿児島間を結んだ寝台特急「富士」。1978年10月には、東京駅を18時ちょうどに発車していた

1970年代にブルートレインブームが巻き起こり、当時の鉄道少年たちにとっては憧れの列車だった。夕方の東京駅にはカメラを構えた大人や子供が集まったし、日の長い夏は沿線にもカメラマンが大勢いた。カメラはフィルムからデジタルになったけれど、「撮り鉄」の鉄道への憧れや情熱は昔もいまも変わらない。変わったといえば列車のほうだ。ブルートレインは次々と姿を消し、東京駅発着の列車は全廃されてしまった。

ブルートレインブームの頃、東京駅からは関西・九州方面へ向けて寝台特急が次々と発車していった。それらはいったいどんな列車たちだったか? 電子書籍として復刻された「交通公社時刻表1978年10月号」を開いてみよう。年配の鉄道ファン諸氏には懐かしく、国鉄時代を知らない若い世代の鉄道ファンには夢のような時代を振り返る。

1レ「さくら」から始まる「ブルトレラッシュ」

1978年10月のダイヤ改正は、「ゴオサントオ」とも呼ばれるダイヤ大改正だ。現在のダイヤ改正は毎年3月に実施されるけれど、当時のダイヤ大改正は10月だった。これは明治時代に鉄道が開業した月が10月で、それ以降、10月が慣例になっていたのだろう。

3月にダイヤ改正が行われたのは、国鉄時代だと山陽新幹線が岡山駅まで開業した1972年3月と博多駅まで開業した1975年3月、東北・上越新幹線が上野駅発着となった1985年3月など。次はJRに移行した後の1988年3月に実施された。青函トンネルと瀬戸大橋の開業に備えたダイヤ改正だった。それ以降、新年度に合わせた3月のダイヤ改正が定着していく。

「ゴオサントオ」の特徴は、全国で特急列車36本の増発と急行列車57本の廃止。紀勢本線の電化で振り子式特急電車381系が登場。電車特急に絵入りのヘッドマークが付いた。また、在来線特急・急行の列車名の号数が下り奇数、上り偶数になった。新幹線に合わせた施策だ。これらの知識を踏まえて、東京駅の時刻表を眺めよう。

16時30分。ブルートレインのトップは寝台特急「さくら」から始まる。長崎・佐世保行。途中の肥前山口駅で長崎行と佐世保行を分割した。客車は14系で、編成の分割に対応するため、車内で使う電力用の発電機を編成端の客車の床下に設置していた。B寝台は3段ベッド。この列車は沼津駅で急行「東海7号」を追い越している。東京駅を10分前に出発した列車だ。

16時45分。寝台特急「はやぶさ」が発車する。西鹿児島(現・鹿児島中央)行で、鹿児島本線経由。西鹿児島駅到着は14時42分。約22時間の旅だった。客車は24系25形。電源車兼荷物車を連結した24系をベースに、B寝台を3段式から2段式として居住性を向上した。A寝台は1人用個室。ベッドの幅はB寝台と同じだったけれど、洗面台付きの個室は羨望の的だった。電源車寄りが基本編成で、付属編成は熊本駅で切り離した。食堂車は付属編成に連結されていた。

17時0分に発車するのは、寝台特急「みずほ」だ。熊本・長崎行。「さくら」と同じ14系客車で、A寝台車と食堂車が付く基本編成は熊本行、付属編成が長崎行。鳥栖駅で分割した。「さくら」は長崎行にA寝台車と食堂車が含まれていた。この時代、長崎行の寝台特急が2本もあった。

15分刻みだった運行間隔が、17時から18時まで1時間も空く。理由は夕方の帰宅ラッシュに配慮したためだ。

18時0分。寝台特急「富士」西鹿児島行が発車する。こちらは日豊本線経由で、西鹿児島駅到着は18時24分。なんと24時間24分も走る列車だ。使用車両は24系25形。個室寝台車で24時間の道中は、おそらく当時最も贅沢な旅だっただろう。食堂車付きの付属編成は大分駅で切り離した。

18時20分。寝台特急「出雲1号」浜田行が発車する。使用車両は24系25形。電源車の直後に個室寝台車を連結。食堂車付きの付属編成は出雲市駅まで連結した。「1号」と付く理由は、もうひとつ「出雲3号」もあったから。後ほど紹介する。

18時25分。寝台特急「あさかぜ1号」博多行が発車。「出雲1号」の5分後を追いかける。使用車両は24系25形。もちろん個室、食堂車付き。「あさかぜ」も2本あった。当時、山陽新幹線は博多駅まで開業していたから、同じ区間の寝台特急が成立していた。

ここでまた帰宅ラッシュのため、間隔が空く。

19時0分。寝台特急「あさかぜ3号」が発車。1号は博多行だったけれど、3号は下関駅止まり。客車は24系25形だけど、距離が短いせいか、A寝台個室と食堂車は連結されていなかった。また、全区間が直流電化区間だったため、後の1989年に電源車は取り外され、架線から直流電源を取り込み、車内用の交流電源に変換するスハ25形を連結した。ロビーカーとして使用され、パンタグラフを持つ珍しい客車だった。

19時25分。寝台特急「瀬戸」が発車。終着駅は宇野線の宇野駅。四国方面へ連絡する列車だ。まだ本四連絡橋はなく、宇野駅から高松行の宇高連絡船に接続した。客車は24系25形。「あさかぜ3号」と共通運用でB寝台のみ。現在の「サンライズ瀬戸」の前身だ。

20時40分。寝台特急「紀伊」と「出雲3号」が連結した状態で発車する。2つの列車は名古屋駅で分割された。「紀伊」は紀伊勝浦行。観光で人気の伊勢・南紀方面へ直通した。「出雲3号」は出雲市行。この列車が現在の「サンライズ出雲」の前身だ。客車は14系で、食堂車はなし。「出雲3号」には開放型2段式のA寝台を連結していた。「出雲3号」はこのダイヤ改正で登場。それまでは米子行で、列車名は「いなば」だった。

寝台特急はここまで。9回の発車で10本の寝台特急が出発した。しかしこれだけでは終わらない。大阪行の寝台急行「銀河」があった。

22時45分。寝台急行「銀河」が発車。ブルートレインの客車としては最も古い20系を使用していた。2段式A寝台と3段式B寝台を連結。短距離のせいか、食堂車はなし。ブルートレインの元祖ともいうべき20系客車だけど、寝台の幅が狭く、すでに当時は旧型になっている。

「銀河」には臨時便もあった。21時50分発の「銀河51号」と、23時59分発の「銀河53号」だ。ただし寝台列車ではなく、14系客車の座席車のみを連結していた。車体の塗色は14系寝台車と同じ青地に白帯だったから、広い意味ではこちらもブルートレインの仲間といえる。多客期に運行された2本の臨時「銀河」を含めると、東京駅からは12回、列車名で数えれば13本ものブルートレインが発車した。

これらの列車が発着したホームは12・13番線。島式ホームの両側にブルートレインが並ぶ時間帯も多く、鉄道ファンや旅行客でにぎわった。このホームの位置には現在、東北・上越新幹線系統の22・23番線ホームがある。

夜の発車もあれば、朝の到着列車もあったわけで、上りのブルートレインは早朝の6時台から7時台にかけて、いったん通勤ラッシュ時間帯を避け、9時台から11時台に到着していた。ブルートレインの黄金時代の東京駅で、こんな風景が毎日繰り広げられていた。