堀高明代表取締役社長とともにスターフライヤーを立ち上げたひとりとして、スターフライヤー創業の歴史をここに記していこうと思う。前回、関空での苦戦とブランディングの価値をテーマにお話した。最終回の今回は営業黒字化になるまで、そして、スターフライヤーを通じて実施してきたコラボレーションをまとめて紹介したい。

就航初年度は20億の赤字となったが、2008年度にやっと黒字化が見えてきた

「おなか」の活用

2006年3月の就航からの2年間は2ケタの赤字となったが、3年目に向けて黒字化への道筋はだんだんと見えてきていた。その中でずっとおぼろげに考えていたのは「空っぽのおなか」、すなわち客席下の貨物室だ。

中小エアラインは貨物事業にはあまり興味がない。大手でさえ収益化するのが大変で、ここで余計な設備投資やコストをかけても収支改善の手助けにはなりにくいからだ。筆者が思っていたのは、「自分で貨物事業をすると手に余る。貨物室もひとつのコードシェアのツールと考え、コストをかけずにスペースを丸ごと売れないか」ということだった。

しかし、航空貨物に長年の蓄積を持つフォワーダー相手にはなかなか交渉も大変なので、どこか適切な提携先がないかと相談しているうちに、福山通運が航空貨物に今後注力しようと考えているので話をつないでもいい、という紹介をいただいた。

協業話はトントン拍子に進み、2008年3月に羽田=北九州線の貨物スペースを使って双方のメリットを追求するスキームができ上がった。現在は貨物販売をANA Cargoに委託しているが、貨物事業での福山通運との取り組みは年間数億円の確実な収入源として、会社を支えてくれたと思っている。

今後どのような形態があり得るかは分からないが、中小やLCCが自分の「おなか」を自らの貨物事業として営業するのは難しいだろう。しかし、法人の社用貨物を何十社か確保し、「おまとめ」で即配サービスを提供するような会社にスペースを売るなどの工夫をすれば、充分成立すると考えている。航空事業はまだまだ奥が深い。

関空での最後の決断

2008年度に入り、黒字化に向けて最後に残った課題が関空線だった。このままでは路線収益を採算に乗せるには長い時間がかかることは皆が感じており、毎月の取締役会で株主の社外取締役から「いったいどういう手を打つのか」と強い指摘を受けていた。取締役会は我々を含め、「何もしないのが一番悪い」という認識にあり、打つ手がなければ路線の廃止を考えざるを得ない。ここに至り、自力で短期間に事態を動かす力は不足していると言わざるを得なかった。

結局、ANAとの共同運航(コードシェア)に踏み切ることにした。関空線は新規優遇枠ではないことから(当時、どの会社でも手を挙げれば関空枠は使えたのだが、結局我々だけが手を挙げた)、便当たりの買い取り座席数の制限がなかった。そのため、多くの席をコードシェアできることとなった。

関空線をANAとコードシェアするための課題が羽田発着にあった

ただ、羽田空港においてスターフライヤー便は第一ターミナル発着、ANAは第二ターミナル発着と、北九州線と違って両社が違うターミナルからそれぞれ同じ路線を運航している。そのため、旅客の混乱やスポットの問題などがあってすぐには実現できなかった。

実際にコードシェアに移行したのは2008年11月からであり、そのタイミングで関空のハンドリングも自社からANAに移管した。途端に関空線に「ネクタイ客(ビジネス利用者)」が増えたとの報告があったし、利用率も底上げされた。

ANAにとっても関空便が一挙に増えたことで伊丹・新幹線旅客に対する競争力の強化はあったと思うが、それ以上にスターフライヤーが大阪地区の大手企業の出張需要を取り込むことができたのは事実である。やはり、ANAの「グローバルマイル」の威力とベネフィットに敏感な関西のビジネスパーソンの手ごわさを感じずにはいられない関空線の教訓であった。

スターフライヤーを支えてくれた方々への想い

貨物事業とANAとの関空でのコードシェアで、2008年度はようやく事業は黒字化を見通せるところまできた。スターフライヤーが自立し、自分なりのアイデンティティーとブランドを持つようになった過程では本当にたくさんの方々のお世話になった。

就航開始時に「機内のボーディング時に流す音楽をオリジナルでできないか」とのアイデアが出て、これはピアニストの岩代太郎さんに曲を書き下ろしていただいた。この「STAR ON THE HORISON」という曲、社内でも気難しくあまりブランディングに興味のなさそうなとある役員から、「キース・ジャレット風でとてもいい」と言われて驚いたことがある。その後、長きにわたってお客さまにも大変好評だった。

機内オーディオではジャズ歌手の青木カレンさんにジャズプログラムのMCをお願いし、ご自身の曲も紹介していただいたのだが、これも大変人気があった。カレンさんとは我々ブランディンググループと家族に近いような感覚でお付き合いしてくださり、そのひとりの結婚披露パーティではサプライズで登場、1曲歌っていただいたりもした。

社内では言っていなかったが、筆者はカレンさんの地元FM番組で「謎の旅人」として空、飛行機、旅にまつわることを掛け合いでしゃべらせていただいたりもした。後半はネタ切れに苦しんだが、1年間仕事と別世界の楽しい時間だった。

また、いくつかの企画会社には国内外のブランドとのコラボを押し進めていただいた。HUGO BOSS、オーデマ・ピゲなどの海外ブランドをどのように連れてくるのか、彼らがなぜこんな新興航空会社と組んでくれるのか、不思議でもありうれしくもあった。

2008年までの間にスターフライヤーが実施したコラボレーションの一例

ブランド構築に尽力いただいた松井龍哉氏、森岡弘氏からの紹介等もあって、日本の各界からも感性に優れた多くの企業に協業を受けていただき、「このような企業のセンスとインスピレーションに富んだ広報宣伝担当に見放されないよう、ぶれないブランドづくりをしなくては」という切迫感があったし、具体的な協業内容を詰める過程で、相手企業の感性やブランド意識に触れ、学ばせてもらったことも数多い。

初めての営業黒字化を機に退任

こうして紆余曲折もあったが、2008年度はなんとか創業以来初めての営業黒字となった。2009年度以降の為替予約が円高で営業外損失を計上せざるを得ず、経常黒字はお預けとなったが、実質的に本業そのものを黒字にすることができて正直ほっとしたのも事実である。

その後、2009年度の役員体制を決める過程で、今後の新規株式公開(IPO)等に関して株主や地元経済界との間で意見の食い違いがでてきた。堀社長との間も含めぎくしゃくした局面もあったが、結局創業時の経営陣が入れ替わり、新社長を迎えてIPOを目指すこととなった。堀氏ともども退任後は特別顧問として2009年度まで籍を置いたが、現役時代から参加していた国交省での羽田増枠に関する懇談会にはその後しばらく出席し、新興会社の育成、地方空港の活性化などについてスターフライヤーの主張を述べたりした。

地元各界のご支援もあって無事に要望した数の発着枠をいただくことができ、羽田=福岡線開設の道筋もついた。限りある発着枠を各社の利害と現実の配便計画をにらみながら、コンマ以下の枠数単位で大手・中堅エアラインに振り分けた航空局の知恵と発想には、皆でほとほと感心したことを覚えている。


これまで11回にわたってスターフライヤーの創業から事業開始前後のエピソードを紹介させていただいた。記憶から去っていることも多くあり、どれだけ正確に歴史を記載できたか分からないが、節々の出来事を少しでも臨場感をもって読者の方々に感じていただけたらと思う。無断で登場させてしまった方を含め、航空会社づくりという得難い経験を共有させていただいた皆さまに心からお礼を申し上げる。

最後に、スターフライヤーがその持てるリソースとブランド価値を最大限に生かし、アジアの空に独自の存在感を刻むような発展を遂げてくれることを心から願い、終稿としたい。

※本文に登場する人物の立場・肩書等は全て当時のもの

筆者プロフィール: 武藤康史

航空ビジネスアドバイザー。大手エアラインから独立してスターフライヤーを創業。30年以上におよぶ航空会社経験をもとに、業界の異端児とも呼ばれる独自の経営感覚で国内外のアビエーション関係のビジネス創造を手がける。「航空業界をより経営目線で知り、理解してもらう」ことを目指し、航空ビジネスのコメンテーターとしても活躍している。