名古屋市を出たのは人生で5ヶ月

「地元」という言葉を使うときにいつもためらいを感じてしまう。2年前からのマンション暮らしで早くも愛着を覚えているのは愛知県蒲郡市だけれど、ここで生まれ育ったわけではない。小学校の4年生まで過ごしたのは埼玉県所沢市で、大学を出るまで居続けたのは東京都の東村山市だ。いずれも旧友が少しいる程度で、とりわけ好きな場所や飲食店などはなく、小中学校時代には良い思い出はあまりない。なお、実家はすでに東村山を離れている。

社会人になってからは杉並区の西荻窪駅周辺に合計8年ほど住んだ。自分と同じ出版業界の人も多く住んでいて、個人経営の小さな店があちこちにある街だ。体の力が抜けるような居心地の良さを感じた。「西荻」こそ僕の地元だったのかもしれないが、愛知の女性と結婚することになって離れてしまった。

生まれ育った町で、地元意識すらないほど当たり前のように暮らし続けている人たちがいる。「地元の外に広がる世界に出る切符」ともいうべき大学卒業資格を持っているにも関わらず、だ。彼らを「インテリヤンキー」と名付けて愛知県と東京都で訪ね歩いてきた。6人目で最終回となるので、ヘビー級のインテリヤンキーに登場してもらおう。名古屋市にある鶴舞公園周辺以外で暮らしたのは人生で5か月だけという鈴木彰さん(仮名、52歳)だ。

「大学を出て就職したのは京都に本社があるデザイン会社です。京都で2か月間の研修を受けて、東京支社に配属になりました。会社の寮がある行徳(千葉県市川市)から職場の茅場町(東京都中央区)まで東西線で通勤したのですが、3か月で辞めて名古屋に戻りました。さすがに同期で一番早くに辞めた人間でしたね」

退職の理由は、バブル経済期で忙しすぎる仕事の内容が「スーパーのチラシの一部分」を作るような作業ばかりだったこと、そして「朝のラッシュがひどすぎた」ことだ。

「背骨が折れそうになるほどのラッシュは、名古屋ではまずありえません。雨の日はみんな濡れた傘を持っているので最悪ですよね……。東京で生まれ育った人は慣れているのかもしれませんが、大学時代までは公園近くの一戸建ての実家でのびのびと暮らしてきた僕には無理です。あれで通勤恐怖症みたいになってしまいました」

残業は月平均200時間という殺人的な労働環境の中、体調を崩す40代の先輩社員も続出していた。しかも、仕事内容は新人の自分とあまり変わらない。これでは明るい展望を描くのは難しい。

平日朝9時の名古屋中心部の様子。人通りは多すぎず、歩道も車道も広い

実家に戻り、デザイン事務所にもぐりこむ

名古屋の実家に戻り、しばらくは東京に通って転職活動をしていたが、「第二新卒」という言葉もない当時は3か月で会社を辞めた若者を採用してくれる会社は見つからなかった。鈴木さんは結局、名古屋にある小さなデザイン事務所にもぐりこんだ。

「手取りはわずか7万円で、寝る時間がないほど働かされました。でも、実家暮らしで生活費はかからないし、仕事の内容が面白かったので問題はありません。名古屋にある大企業の仕事を、広告系のグラフィックデザインの華であるポスター制作を含めて打ち合わせから納品まで一人でやれる。3年ほどガーッと働いて27歳でデザイナーとして独立しました」

鈴木さんによれば、名古屋に本拠地を持つ企業は広告制作も名古屋の会社に委託する傾向があり、しかも信頼関係を一度築くと仕事が長く続くという。

「面白くて予算が大きい仕事は東京に集まっているのは確かですが、佐藤可士和みたいな超有名人でない限りは、一人のクリエイターが毎年続けられる仕事は少ないと思います。しかも、たくさんの人数でやることになる。僕は運良く、ある小売企業のポスターやテレビCMを10年間もかなり自由にやらせてもらいました。勉強にもなったし、信用も得られた。名古屋にいたことが僕にはむしろ良かったと思います」

名古屋の中心地に位置する鶴舞公園周辺に実家がある鈴木さんは恐怖の通勤電車とは無縁の生活だ。自分の能力を生かせて、しかも生活をしていけるお金を稼げる仕事ができるのであれば、住み慣れた地元で暮らすほうが自然なのかもしれない。では、鈴木さんにとっての名古屋と鶴舞公園がいかに心地いい場所なのか。次回の後編でお届けする。

(後編は10月16日の掲載予定です)

<著者プロフィール>
大宮冬洋(おおみや・とうよう)
フリーライター。1976年埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業後、ファーストリテイリング(ユニクロ)に就職するがわずか1年で退職。編集プロダクションを経て、2002年よりフリー。愛知県在住。著書に『バブルの遺言』(廣済堂出版)、『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました』(ぱる出版)など。食生活ブログをほぼ毎日更新中。毎月第3水曜日に読者交流イベント「スナック大宮」を東京・西荻窪で、第4日曜日には「昼のみスナック大宮」を愛知・蒲郡で開催。

イラスト: 森田トコリ