未来と過去に突き出した島

さて、本連載、今回で30回に到達し、一段落を迎えることとなった。その節目にふさわしい"端"を考えてみたら、浮かんできたのは「種子島」だった。そんなわけで、3月上旬に2泊3日で鹿児島県は種子島を訪れた。

しかし、なぜ種子島か? いうまでもなく種子島は、地理的には日本の端とは言いがたい。東に海をたどれば伊豆諸島から小笠原諸島の島々が連なっているし、すぐ西には世界遺産の島・屋久島が雄大な姿を見せ、その先には口永良部島をはじめ小さな島々が浮かぶ。南の方角に目を向けても、トカラ列島から奄美諸島、琉球諸島。さらに真南には、北大東、南大東などの大東諸島がある。

このような地理的条件にあるにもかかわらず、種子島は二つの側面で日本の端としての資格を備えている。そう、ひとつは過去に西洋世界に対して、そして現在は未来に対して。種子島はこの二つの時間において、もっとも突き出た場所だといえるのだ。

まず、過去。種子島といえば、やはりすぐに想起されるのは「鉄砲伝来の地」ということだろう。一方の未来とは、もちろん宇宙。ロケット打ち上げで知られる「種子島宇宙センター」の存在である。

鹿児島空港から30分ほどのフライトで、種子島空港に到着する。滑走路に降り立つと、コスモポート種子島と名づけられたターミナルビルが目に入る。Welcomeの横断幕も、アイコンはロケットと火縄銃だ

偶然? そう、まったく偶然なのだろうけれど、種子島はロケットのような、そして火縄銃のような、細長い形をしている。南北の距離はおよそ60km。車で直行しても1時間半以上かかる。種子島空港はその細長い島のほぼ真ん中にあるから、全島への車でのアプローチについてはベンリな位置といえる。

なお、種子島へのアクセスは、空路と海路の双方がある。空路・海路ともにベースとなるのはやはり鹿児島。そのほか、飛行機では大阪伊丹から、船では屋久島からのアクセスも可能となっている。

種子島では、いたるところでロケット形のオブジェが見られる。空港や港にロケットのミニチュアが立っているのはもはや当然。このように橋の欄干がロケットになっているところもあるほど

宇宙にいちばん近いエリアへ

3月上旬某日。朝8時羽田発の便で鹿児島に向かい、30分ほどで乗り継いで定刻どおりの11時5分に種子島空港へ着陸した。天気はあいにくの曇り。どんよりと重たい雲が空を覆っている。空港でレンタカーを借りて、さっそく種子島宇宙センターに向かった。

島の南端近くにある種子島宇宙センターは、種子島が"宇宙にいちばん近い島"と呼ばれるゆえんの地である。空港から宇宙センターの入り口までは車で約40分。途中は快適な道が続く。宇宙センターの総面積は970万平方メートルにも及ぶため、空港に近い北側の道からセンター敷地内に入ると、めざす「宇宙科学技術館」にたどり着くまでさらに20分近く走ることになる。

射場(ロケットの打ち上げ場所)や美しい海岸線を望みながら走ると、やがて芝生の上に横たわるH-Ⅱロケットの実物大模型の出迎えを受けて、宇宙科学技術館に到着する。ここには「きぼう」日本実験棟実物大モデルをはじめ、宇宙開発に関するさまざまな資料が展示されており、無料で見学を楽しめる。そのうえ、総合指令棟やH-Ⅱロケットの実機を見学できる1日3回の無料ツアーが催行されているし、打ち上げ時にメディアが撮影を行う展望ポイントなど周囲にも見所があるので、半日程度はすぐに費やしてしまう。

宇宙ファン憧れの地・種子島宇宙センター。広大な敷地内には、写真の宇宙科学技術館をはじめ多くの見所がある。無料ツアーは楽しいので参加をオススメしたい(当日受付も可能だが混雑時期は予約したほうが安心)

宇宙科学技術館の近くにある竹崎展望台は、打ち上げ時にテレビや新聞などのメディアが陣取る絶好のポイント。ここから見える景色にはきっとなじみがあることだろう

組み立て前の状態で南西岸の島間港まで海路でやってきたロケットは、そこから陸路で宇宙センターに運ばれる。ルートとなる道筋の道路案内板や電線はかなり高い位置にあり、信号機も折りたためるようになっている

宇宙センターに到着した昼すぎから、途中の無料見学ツアー参加を挟み、宇宙科学技術館の閉館時間(17時)までゆっくり滞在した。しかしながら実はこの初日、夕方からかなりの雨になってしまった。

この日の宿に選んだのは、宇宙センターから車で20分ほどの南種子町市街地にある「門倉亭南荘」というところ。この辺りでは老舗の宿で、宇宙開発関係者も多く利用するそうだ。食堂には毛利衛さん、向井千秋さん、土井隆雄さんが記した色紙も飾ってあった。

夕食は宿で郷土料理のコースをいただいた。種子島名物のトッピー(トビウオ)の姿揚げ、アサヒガニの塩茹で、あんのう黒豚のしゃぶしゃぶ、紫イモのコロッケ、水イカ(アオリイカ)の石焼、赤米のご飯など盛りだくさんの内容。晩酌ももちろん地元の芋焼酎「南泉」をお湯割りで。窓の外では風雨がさらに強まっていた。翌日は一日雨が続くらしい。

種子島でトッピーと呼ばれるトビウオと、アサヒガニ。トッピーは塩焼きで食べることが多いようだが、ここでは一匹丸ままの姿揚げだった。しゃぶしゃぶで食したあんのう(安納)黒豚も地元ブランドである

西洋から鉄砲がやってきた海岸

2日目は、天気予報が見事なほどに当たって、一日中ずっと雨だった。しかもけっこうな雨量で、風もあったので、車で出かけても差し支えない「たねがしま赤米館」を訪れた以外は、基本的に宿周辺でおとなしくしていた。翌日の天気予報は、晴れ。これに期待して眠りに就く。

そして3日目、またまた天気予報が完璧的中で、昨晩までの雨がウソのように晴れ上がり、朝からすばらしい天候となった。宿を発ってまず向かったのが、島の南端・門倉岬。ここはいわゆる"鉄砲伝来の地"である。

風光明媚な岬には、鉄砲伝来に関する碑や展望台、火縄銃を構えた銅像などが散在。案内板は「1543年(天文12年)8月25日、ここより見下ろす小浦の辺りに、見なれぬ大きな異国船1隻が漂着した。(中略)先方より鉄砲を撃ち放ち、その轟音に村人は驚き騒然となった」と語る。時の島主・種子島時堯がポルトガル人から2丁の鉄砲を購入し、後に「種子島」と呼ばれる火縄銃の国産を成功させたことで、日本における戦の新時代が始まったわけだ。その意味で、日本の近代は種子島のこの地からスタートしたといっても、けっして過言ではないだろう。

鉄砲伝来の地・門倉岬。向こうに見える青い海に、1543年、ポルトガル人の乗った船が漂着し、日本に鉄砲が伝えられたとされる。その海を越えた向こうには、宇宙センターの射場を遠く望むこともできる

こちらは種子島の中心地・西之表市にある種子島博物館(種子島開発総合センター)と、その向かいの赤尾木城址に立つ種子島時堯像。博物館は南蛮船の形を模した建物で、日本初の国産火縄銃などを展示する

種子島は米の島でもある。古くから赤米が栽培されていたほか、日本一早い米が収穫される地としても知られる。筆者が訪れた3月上旬で、すでに田植えが始まっていた

種子島は最高地点でも標高282mしかない平らな島である。しかしすぐ隣には、九州一の高峰・宮之浦岳(1936m)を擁し、"洋上のアルプス"とも称される屋久島が浮かんでいる。すぐ隣同士でありながら、その様相は大きく異なっている。1000mを超える高山を多数抱える屋久島の姿は、種子島の各地から望むことができる。門倉岬や宇宙センターの竹崎展望台からも見えるし、南西海岸からは海越しに迫ってくる雄姿を拝める。島間港からは屋久島への定期船が出ているので、日程的に余裕があるならぜひ両島を訪れたいところだ。

海の向こうに世界自然遺産・屋久島を望む。種子島・屋久島の形と位置関係は、種子島がバットで屋久島がボール……という感じ(ボールが少々大きいが)。細長い種子島と円形に近い屋久島は、隣にあっておのおの異なる魅力を放っている

地理的環境だけでなく、観光の面でも種子島と屋久島では様子が異なる。屋久島はやはり世界遺産の島としてのイメージが強く、最近の観光ブームは相当なもの。一方の種子島というと、ここまで紹介した宇宙センターと鉄砲伝来以外に、イメージがなかなか浮かばないのが実情だろう。

もちろんこの島は海が美しく、サーフィンの名所としても知られている。食材は豊富で、焼酎を造る酒蔵もいくつもある。子どもの頃から誰もが名前を聞いていても、なかなか訪れる機会をつかめない種子島。過去と未来の"日本の端"を見極めるためにも、ぜひ一度、上陸していただきたい。

宇宙センターの北方に広がる浜田海岸は白砂が続く美しいビーチ。一角に砂に埋もれた鳥居が立ち、その奥には「千座(ちくら)の岩屋」と呼ばれる洞窟がある。干潮時は中に入ることができる

種子島の気候は、沖縄や奄美ほどではないにしてもやはり温暖。マングローブを構成するメヒルギの自生地が見られるほか、坂井神社には樹齢600年を超える大ソテツの木もある

(左)太平洋戦争中、種子島にも基地が建設されたが、多くの施設は空襲で破壊された。戸畑の煙突と呼ばれるこの建造物は海軍飛行場の跡地に残り、当時の面影を伝えている(上)雄龍雌龍(おたつめたつ)の岩という名の西海岸の名所だが、なにやら微妙な戦隊ヒーローの姿が……。なんでもここは「離島戦隊タネガシマン」とやらの発祥地らしい