西行の代表的な作品の舞台となった鴫立沢

大磯の町は、江戸時代に東海道五十三次の宿場町として栄え、明治時代中期からは別荘地、海水浴場としても人気を集めた。そんな大磯の移り変わりを見てきたのが、昔も今も同じ場所に佇む鴫立庵(しぎたつあん)。秋の行楽シーズンに限らず、週末になるとリュックサックを背負ったハイカーたちが続々と集まってくる、大磯を代表する観光名所のひとつだ。

国道1号線から石段を下りたところが鴫立庵。かつて西行が目にした沢は今いずこに

そもそも、この庵が誕生したのは、寛文4年(1664年)のこと。小田原からやってきた崇雪(そうせつ)という外郎(ういろう=丸薬)売りが、この地に石仏の五智如来を祀って、小さな草庵を結んだのがきっかけとされている。

崇雪はどうやら西行の熱烈な信奉者だったようで、新古今和歌集の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」という西行の句に登場する「鴫立沢」を探して歩きまわり、ついに大磯の海岸近くにある「鴫立沢」を見つけて、そこに草庵をつくってしまった、ということらしい。

鎌倉時代に詠まれたこの西行の歌は、新古今和歌集の中では「寂しさはその色としもなかりけりまきたつ山の秋の夕暮れ(寂蓮)」、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家)」とともに"三夕(さんせき)の歌"と呼ばれている。いずれもどこかもの悲しい、"もののあはれ"をじんわりと感じさせてくれる秋らしい歌だ。

茅葺き屋根の庵や情緒あふれる庭園を見学できる(料金100円)

日本三大俳諧道場のひとつにまで発展

その後、素朴な草庵が、きちんとした庵となったのは、元禄8年(1695年)に、俳人の大淀三千風(おおよどみちかぜ)が移り住んできてから。三千風は草庵を鴫立庵と命名して、初代の庵主となった。三千風は元禄10年(1697年)に西行500年忌を行うなどして庵の地位を確立し、この地で9年間ほど過ごしたという。

ちなみにこの大淀三千風は、かつて仙台で暮らしていた時代に大矢数(もともとは通し矢の競技だが、井原西鶴によって、一昼夜で俳句がいくつ作れるかを競うゲームとして考案された)にて、3,000句という前人未踏の大記録を打ち立ててから「三千風」を名乗るようになったという伝説的な俳人だ(翌年、井原西鶴が4,000句を詠み、三千風の記録は追い抜かれたが)。

また、仙台にほど近い風光明媚な松島にちなんだ俳句を全国から募集して『松島眺望集』という本を出版したのも三千風。同じ時代を生きた松尾芭蕉とも交流があり、芭蕉が東北を旅しようと思ったのも、『松島眺望集』を読んだからだと言われている。つまり、大淀三千風がこの本をまとめなければ、あの『奥の細道』は生まれなかったのかもしれない。

余談だが、松島、芭蕉、奥の細道ときたので、ぼくの頭には「松島やああ松島や松島や」という句がすかさず思い浮かんだ。しかし、実はこれが芭蕉の作品ではないことが、今回いろいろ調べているうちに判明。松島の景色の美しさに感動した芭蕉が、やっと言葉を絞り出して詠んだ句、と勝手に思い込んでいたのだが、実は後世の狂歌師が作ったものらしい。久しぶりに目からウロコだった。

さて、三千風が俳句の指導を行って以来、鴫立庵の庵主は代々俳句を教えるのが伝統。俳界では、京都の落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵(むみょうあん)とともに日本三大俳諧道場として知られているそうだ。平成14年(2002年)からはテレビなどでも活躍中の俳人、鍵和田ゆう子さんが22世庵主に。地元の俳句グループによる定例句会なども活発に行われ、三千風が大磯に残していった俳句文化は、脈々と受け継がれている。

この日も地元の俳句グループが集まって月例句会を開いていた

大磯こそが"湘南発祥の地"という説も

もうひとつ、この鴫立庵には「湘南とはどこか」という問題を考える上で、絶対に見逃せない史料がある。今から約340年前に、おそらく日本ではじめて「湘南」という言葉が使われた標石のレプリカが敷地内に置かれているのだ(本物の標石は塩害による劣化を防ぐために、神奈川県立城山公園内の大磯町郷土資料館に展示されている)。

表に「鴫立沢」と刻まれた標石の裏側にまわると「崇雪 看盡湘南清絶地(湘南はとてもすばらしいところだ)」という文字が見られる。これを刻んだのは最初に草庵を結んだ崇雪。崇雪の祖先は中国からやってきたという説もあり、海や山、川など豊かな自然に恵まれた大磯周辺が、中国湖南省の洞庭湖近くを流れる湘江の南部によく似ていたことから、崇雪はこの地を"湘南"と呼ぶようになった、と言われている。「大磯こそ湘南発祥の地」という説は、この標石に刻まれた7つの文字から生まれたわけだ。

表に「鴫立沢」、裏に「崇雪 看盡湘南清絶地」という文字が刻まれた標石(レプリカ)

鴫立庵では、毎年3月下旬になると西行を偲ぶ「大磯西行祭」が行われる。しかし、崇雪の功績をたたえるようなイベントはひとつも存在しない。いや、そもそも、草庵を結んで亡くなるまで隠居暮らしをしていたはずなのに、崇雪に関する情報はあまりに少ない。

「看盡湘南清絶地」という歴史的な言葉を大磯町に残してくれた大切な恩人なのに……と残念に思ってしまうのは、ぼくだけなのだろうか。