先日、新聞を読んでいましたら、正社員並みに働いても生活保護水準以下の収入しか得られない、いわゆる「ワーキングプア」に関する報道がありました。その中で、あるフリーターの若者が「働いても働いても楽にならないが、たとえ収入が生活保護以下であっても福祉の世話にはなりたくない…」というような趣旨の発言をしておりまして、私としましては少々引っかかりを感じました。この「福祉の世話にはなりたくない」という言葉ですが、読者の皆様にはどのように聞こえたのでしょうか?

志茂田誠諦(しもだ・じょうたい) 東京福祉大学・創造学園大学講師(社会学、社会保障論などを担当)。浄土真宗本願寺派僧侶・真宗ライフデザイン研究所理事。専門は日本文化論、福祉文化論。

福祉って何?

そもそも「福祉」とはどのような意味を持つ言葉なのでしょうか? 辞書を引いてみますと、『大辞泉』(小学館、1995)には「公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境」とあります。また、国民の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(生存権)を保障している日本国憲法第25条には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と明記されています。

これらはすべて、福祉は国から国民に等しく与えられる「権利」であることを意味しています。権利ですから、堂々と受けることができるはずなのに、前述のフリーターの発言との間にはどうもギャップを感じます。では、なぜ冒頭のような発言が生まれるのでしょうか? 正解を言ってしまうとこのギャップは、福祉が生まれた歴史的背景に端を発します。

最初の福祉は「貧しい人のため」

社会福祉が生まれた発端には諸説ありますが、『社会保障論(第5版)』 (中央法規、2007)。では社会保障が生まれた理由の一つとして「イギリス等のヨーロッパの慈善事業と救貧法(Poor Law)」を挙げています。

「救貧法」の正式名は「エリザベス救貧法(旧救貧法)」と言います。「エリザベス」という言葉からもお分かりかと思いますが、徳川幕府が開かれたのとほぼ同じ時期の1601年、イギリスのエリザベス1世のもとで制定されました。詳述は避けますが、同法はさまざまな理由で生計が立てられない人々を人道的に救済することを目的としています。つまり、社会福祉の歴史は「貧しい人を救うこと」から始まったのでした。

もともと「福」や「祉」という文字は「幸福である状態」を意味するものですから、ここに「貧困」のイメージを結びつけるのは元の意味からすればおかしいのですが、こういった歴史的な経緯から、どうもネガティブなニュアンスが加わってしまったようです。そこで前述のような「福祉の世話になりたくない…」という発言が出てきてしまうわけです。

エリザベス救貧法は1834年(日本では江戸時代末期の天保年間)に大改正され、こちらは「新救貧法」と呼ばれるようになります。このころのイギリスは、産業革命からはじまった大きな社会変動のさなかにあり、激変する社会システムのなかで大量に発生した貧困層が社会全体の大問題となりはじめた時代でした。余談ですが、一昨年に公開された映画「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督)では、孤児院における処遇や大都市における格差など、社会福祉を学ぶ上で重要な事柄が盛り込まれていますので、機会があれば是非見ていただきたいと思います。

福祉の考えは「貧しい人を救う」から「貧しくなるのを防ぐ」へ

新救貧法の時代からほどなくして、「ロンドン調査」を行なったC.ブースや、「ヨーク調査」を行なったのB.S.ラウントリーらの登場で、貧困層の実証的な研究が進みます。こうして、貧困は困窮者自身の問題であるという考え方から、労働条件や社会制度といった国の社会政策の問題である、という考え方に変化していきました。

ドイツ帝国の宰相ビスマルク(北海道大学附属図書館所蔵)

この考え方を政策としてはじめて実現させたのが、ドイツ帝国の宰相ビスマルクです。世界史の教科書で「鉄血宰相」とか「アメとムチ」というような言葉をご記憶の方も多いと思います。ビスマルクは1883年の疾病保険にはじまり、災害保険や養老及び廃疾保険などを次々に法制化し、現在の社会保障制度に大きな影響を与えました。

そして、ビスマルクの政策に影響を受けたのが、イギリス首相のL.ジョージ(在任期間:1916-1922)です。彼は政権を獲得したのち「社会改良」の名の下に、国民保険法(疾病と失業)や老齢年金法など今日の社会保障法に直結する政策を実行しました。こうして、よく耳にする「ゆりかごから墓場まで」という言葉はイギリスの社会保障制度のシンボルとなったのです(ただし、この言葉自体が生まれたのは20世紀半ばになってからですが)。

こういった考え方は、貧困の状態に陥らないための予防的な手段ですから「救貧」ではなく「防貧」と呼ばれます。社会福祉の歴史は、「救貧」からはじまり、「防貧」という大きな流れになって現在まで続いているわけです。私たちにとってもっとも身近な社会保障制度である年金や健康保険、雇用保険は、ビスマルクやイギリスにはじまる社会政策につながっているのです。

福祉は国民の権利、なのに…

さらに、1990年代に入ると、社会福祉の考え方は社会福祉関係法の改正や基礎構造改革によって「QOL」(Quality of life;生活の質)の意味合いを持つようになります。これにより福祉という言葉は、より普遍的ですべての人がそれぞれの生活の質の向上を目指す意味へと向かっています。この社会保障制度をはじめとする社会福祉の大きな変換が進められた要因は、それが世界的な潮流であることもありますが、日本においては来るべき団塊世代の高齢化(社会保障の上では65歳以上を高齢者とします)に備えてのことでした。具体的な話は以後本欄でお話いたします。

ただし、「QOL」や「防貧」という考えが生まれてもなお、「救貧」は重要な社会政策として生き続けました。生活保護などを中心とする公的扶助がそれに当たります。生活保護の実態については新聞や雑誌でさまざまに取り上げられたりしますが、社会的な認識の中からかつての「堕民論」(生活困窮は困窮者自身が怠け者だからという考え)的なイメージが抜けきれていないように思われます。こういった事象をアメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンは「スティグマ」と呼びました(『スティグマ』1963)。これは、ある特定の集団や個人にネガティブなレッテルを貼る(ラベリングといいます)ことで、「負の烙印」と説明されたりもします。

前述したフリーターの若者は、福祉とは「貧しい人を救う」ものという意識を知らないうちに持っていたのでしょう。それは、歴史的経緯をみれば誤解を受けても仕方のないことかもしれません。ですが、福祉は「貧しくなることを防ぐ」「生活の質を向上させる」という前向きな考えを持っています。そして、その権利は国民である皆様に平等に与えられているのです。ですから、ゆめゆめ「福祉の世話になりたくない…」などとおっしゃることのないように…。 ―つづく―