こんにちは。「実家」という言葉をかみしめているイチイです。いまだ独身なのに、「実家」という距離を置いたような言葉を使うのもヘンな話です。でも、家を出てから5年以上経ってやっと最近、「実家」から離れてしまったんだなぁとしみじみ実感しているのです。

きっかけは、大した話じゃないんですけど。

お風呂の蛇口って、大抵レバーでシャワーとカランが切替られるようになっていますよね。イチイ家には、切替レバーは必ず自分が出た後は、カランに戻しておかなければいけないという暗黙のルールがあります。それをもし破ると、カランだと思って蛇口をひねった人は上のシャワーから頭めがけて水が出てきて「うひゃぁ!」ということになってしまうのです。イチイ家はご老体も生活しているので結構重要な問題です。

イチイは一人暮らしの生活が長く、お風呂にお湯をためるという習慣がなくなっていました。特に夏場なんて、シャワーだけで済ませてしまうことがほとんど。最初から「シャワー」に切り替えて「シャワー」のままお風呂場を後にするのが当たり前になってしまっていたため、実家に泊まった日の翌朝は、必ず母からやんわりと注意されます。「あのね、お風呂使った後は『カラン』に戻しておいてほしいんだけど……」遠慮がちに言う母に対し、イチイは「そんなん、どーでもいいじゃん」と思ってしまいます。その意識の甘さから、その後数回泊まりに行った後も、ついつい「シャワー」のまま直さずに、そのたびに後に入ったおばーちゃんは「うひゃぁ!」ということになっていたようです。当然翌朝の注意は続きました。

ある日実家に泊まりに行った日のこと、お風呂を出るときにフッと思い出して「カラン」に戻しておいたのです。その翌朝は、何も言われませんでした。蛇口は「カラン」じゃないといけないのです。その昔から何年も脈々と受け継がれてきたルールは絶対です。それを破る者に対しては必ず抗議があり(母の注意がそれ)、それが破られなければ静かな海のように何も波風は立たない。家族のルールにはそんな厳粛さがあるのです。

そもそも家族の一員であれば、常識となっているルールの存在には気付きもしません。でも今回、家族間の不文律を意識して守らねばならないほど、自分が「実家」から離れた存在になっていたことが、今回わかったのです。

さて今回の電子書籍はホームドラマ。それも、現代的なゆるめのホームドラマです。中村航さんの「夏休み」。マニュアルライターの主人公「マモル」とその妻で発明特許事務所で働く「ユキ」、同居するユキの母「ママ」、ユキの友人の「舞子さん」とその結婚相手の「吉田くん」登場人物はこの5人のみです。

ストーリーは主人公夫婦が競争率30倍の都民住宅に当選し、「ママ」と3人での新婚生活をスタートさせるところから始まります。一見複雑な事情っぽい感じですが、深刻な雰囲気はまったくなく、わたアメのようなかるーいゆるーい感じで話は流れていきます。どこがどうゆるいのか。まず、家族の描写が限りなく平和なのです。たとえば朝はこんな風に始まります。

ワゴンを押して、ユキの母親が現れた。
コルク製のコースター。ハリオのガラス製ティーポット。砂時計。陶器製のミルクピッチャー。ソーサー。
ママは天上からの使者のように、それらをテーブルに並べていく。(中略)
この朝にさらなる秩序と調和をもたらして、ママは台所へと戻っていく。

(「夏休み」(中村航))

親子の確執とかそういう重いテーマはまったくなく、主人公は妻の母親のことを「ママ」と呼び、そこに違和感はまったく感じないという世界です。

また、ストーリーにもいい感じのゆるさがあります。友人夫婦の吉田くんと主人公は出会って早々「片方が離婚したら一緒に離婚する」という密約を交わします。その後、吉田くんが家出したことから本当に離婚の危機が訪れ、ちょっとした盛り上がりを見せます。お、ちょっとドロドロした感じになってきた? と読みながらわくわくしていると、なぜかテレビゲーム対決で解決。そんなに軽い感じで離婚云々を片付けてしまっていいのか、と疑問を感じずにはいられませんが、「現代的」と言ってしまえばそれまでです。

そんなゆるゆると流れる小説の中で全体をひきしめているのは「ママ」の存在です。「ママ」はこの小説のメインのストーリーにはからんできません。「ママ」の淹れるお茶は世界一おいしいだとか、娘のユキが出かけているときに主人公と2人で店屋物の親子丼を食べているだとか、そのようなところどころの登場なのですが、「ママ」が登場するとこの小説の家庭的な部分が色濃く出るのです。地に足が着いているような感じがして、そこはゆるくないのです。何年か経ってこの小説のストーリーを忘れてしまっても、きっと「ママ」だけのことは憶えているんだろうと思わせるような印象的なものを残しています。

結局、家庭の象徴というものはいつの時代も母であるわけですよ。基本的に、母がいなければホームドラマにならないのです。そういえば、父子家庭のドラマも、必ず「お母さん候補」が出てくるし。そんな単純な法則に気づかされた今回の小説でした。

「夏休み」
著者:中村航
出版社:河出書房新社
価格:914円
データ形式:ドットブック/XMDF
購入サイト:ビットウェイブックス