今回のテーマは「ペット」である。自らの意思で飼っているペットはいないが、最近自室にカメムシが生息している。虫への常として、私は「自然消滅を待つ」ことにしているので、率先して退治しようとは思わないが、その前に私の部屋の臭いでカメムシが死なないか心配である。

ペット、というか動物、厳密に言うと、おキャット様はいい。見かける度に「この」「腐敗」「世界」「落とされた」「ゴッズ」「チャイルド」と言った謎の語群が脳裏を駆け巡る。とにかく、言葉の限りを尽くし、時には「気絶」というボディランゲージを交えておキャット様を褒め称える日々だが、冗談でも「飼いたい」とは言えないし、そういうジェスチャーもできない。

「あなたに、飼われたら猫がかわいそうだ」。夫の言である。これは私が「猫ちゃん可愛い。ねえ、あなた飼いたい♪」などと言ったわけではなく、テレビに映ったおキャット様に対し、「ゴッズチャイルド……」と言っただけだ。告ってないのにフラれたかのような、若干腑に落ちない話だが、言っていることに関しては「完全に同意」である。

カメムシに粘り勝ちするような女に、ペットというか命を扱う権利などない。自分の世話ができてないのは、自分のことだからいい。家族や周囲にも迷惑をかけているだろうが、迷惑の範囲が人間ごときの内に収まっている内はまだいい。

相手は何度も言うがゴッズチャイルドだ。神の命は、あまりにも私には重い。神への敬意の表し方はそれぞれだ。神を家に招き入れ、直接奉仕する信仰の仕方も尊いと思う。だが、私は「できるだけ近づかない」という形でおキャット様を崇めていこうと誓ったのだ。よって、心どころか、内臓ごと全部入れ替え、別人にでもならない限りは、ペットは飼えそうにない。

では、宇宙人にキャトルミューティレーションで中身を全部抜かれ、代わりに腐葉土等、今よりはマシな物が詰められて、生まれ変わったとしたら、おキャット様を飼うのかというと、やはり飼わない気がする。

前にも言ったが、おキャット様を飼わない一番の理由は、ペットロスから20年以上立ち直れていないからだ。でも、小学生だった時とは違い、今は死というものを理解しているのだから、少なくとも当事よりは、おキャット様との別れを受け入れることができるだろうと思うかもしれない。

だが、どう考えても、小学生より受け入れられない気がしてならないのだ。大人になると全てのことに強くなるように思えたが、ある種の部分はどう考えても弱くなっている。特に、「ブルー」耐性がなくなっている。

「大人になってから意味が分かった」。昔はよく分からなかった物語が、大人になってから理解できるようになったなど、いい意味で使われることもあるだろう。しかし逆に、「子どもの時に気がつかなかったブルーに気づいてしまう」こともあるのだ。

鬱映画を見ても、子どもの時は大人の世界とか細かい機微が分からないので、「よく分かんなかった」で済ませられるが、大人になると「よく分かってしまう」のだ。そこに漂う「ブルー」を。

大人になるにつれ、年齢制限がなくなり、大体のものが鑑賞可能になる。しかし、「見てもいいよ」と言われても、それに反比例してこちらの心が耐えられるものが少なくなってきてしまうのである。もはや最近では、主題が人間関係というだけで見ることができないので、8割爆発とカーチェイスをしているものしか鑑賞できない。

私が全身砂利、という名の真人間になったとして、おキャット様のお世話を完璧にこなしたとしても、やはり、別れに耐え切れる気がしないのだ。よって、おキャット様を飼おうと思ったら、おキャット様のケアをそつなくやりながら、なおかつ感情は失わなければならない。

鉄郎が言っていた「機械の体」とはこういう状態だろうか。おキャット様を飼うにはまず、銀河鉄道に乗り込む必要がある。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。
デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。