今年、テレビから一つ文化の灯が消える。SMAPの解散発表に伴い、制作を手がけるフジテレビと関西テレビは先日、グループの冠番組『SMAP×SMAP』(毎週月曜22:00~)の年内終了を正式に発表した。

”文化の灯”という表現は、決して大げさではない。特にテレビのフィールドにおいて、『SMAP×SMAP』が20年続けてきた努力はまさに偉大だったように思う。そこにあるものは日本のテレビ史が始まって63年、ハナ肇とクレイジー・キャッツからザ・ドリフターズに受け継がれ、そして”ドリフの子供たち”である団塊ジュニアのSMAPが結果的に引き継いだ「音楽×笑い」という貴重なテレビの財産だった。

テレビの偉大な先人たちとSMAP

コントと料理ショーと音楽を1時間のテレビに詰め込んだ国民的グループの「音楽×笑い」、そのルーツを意識すると、やはり2組の偉大な先人たちに行き着くのではないだろうか。

日本のテレビの歴史、とりわけバラエティにおける重要なエポックメイキングとして、ハナ肇とクレイジー・キャッツの登場を思い浮かべる人は多いだろう。元々実力派のジャズミュージシャンだった彼らが歴史に名を刻むきっかけとなったのはフジテレビのバラエティ番組『おとなの漫画』(1959年~1964年)への出演だが、その彼らの武器こそ、まさに「音楽×笑い」だった。

終戦後に空前絶後のブームを起こした日本のジャズが大衆の手から離れようとしていた1955年頃、ハナ肇はコミックバンドを構想する。「深刻な顔をしてやっているよりは、人を笑わせて楽しませるバンドがいい」。それはまだバンドマンの多くが米軍キャンプを回っていた時代、奏者の彼らが音楽の仕事を続けるためには、広く伝わるステージングを常に模索しなければならなかった事も、深く関係していた。

そして結成から4年後の1959年に始まった『おとなの漫画』、さらに2年後に始まった『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ 1961年~1972年)で、彼らは持ち前のセンスとリズム感をいかんなく発揮し、テレビバラエティの礎を築く。主婦や子供の格好でコントをやる時も、本業の楽器を手に持った時も、プロミュージシャンである彼らにとって、それは同じ”万国共通のエンターテインメント”だった。だからこそ、視聴者は夢中になり、彼らを一躍スターダムへと押し上げていったのだ。

SMAPという”ドリフの子供たち”

さらにクレイジーが次にそのバトンを渡したのも、やはり専業コメディアンではない、ミュージシャン出身のザ・ドリフターズだった。ドリフはクレイジーの弟分という印象が強く、実際にそうなのだが、実はリーダーのいかりや長介はクレイジーのメンバーと同世代になる。上京時期のタイムラグによりデビューは後になったが、いかりやもやはり米軍キャンプのステージを体験しているバンドマンの一人だ。

いかりやは前座の演奏を終えてソデから覗き見た、アメリカのプロのエンターテイナーが行う”笑いの絶えない本場のショー”にかなり影響を受けていたという。そしてそれと前後するように、音楽畑のハナ肇とクレイジー・キャッツが、テレビから国民的人気グループへと駆け上がっていった。

いかりやがリーダーを引き継いだ時、ザ・ドリフターズはすでに「ショーアップ」を大きく意識していたバンドだった。ポスト・クレイジーに据えられた彼らは1969年、満を持してコントと歌を柱にした自身のメイン番組『8時だョ!全員集合』(TBS 1969年~1985年)をスタート。以降番組は最高視聴率50.5%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)の記録と共に、日本のテレビに大きく影響を与えることになる。

ここでSMAPに話を戻そう。ハナ肇とクレイジー・キャッツが築いた歴史をザ・ドリフターズが大きく花開かせていた1970年代、第二次ベビーブームの中で生まれたのがいわゆる”団塊ジュニア”だ。

この世代は幼少期にドリフ人気が直撃しているのだが、その中にいたのが、後にSMAPと呼ばれることになる6人のメンバーだった。全員が1970年代生まれの彼らは、いわば”ドリフの子供たち”とも言える。