1956年に創刊され、今年で60周年を迎えた週刊誌『週刊新潮』。酒井逸史編集長の直撃インタビュー前編では「3つの伝統」を中心に話を聞いたが、後編では同誌が社会に問い続けている「少年法と実名報道」にスポットを当てる。「少年法に罰則規定がない」というグレーゾーンになぜ挑み続けるのか。そして、「実名報道に踏み切るか否か」の基準、経緯とは。

2016年2月18日号(2月10日発売)では、川崎中1殺人事件の主犯少年を顔写真と実名で報じた

メディアに問う「思考停止」

――最近では、川崎市中1男子生徒殺害事件を実名で報じていました。あらためて、こだわり、思いをお聞かせください。

まず、少年法をどのように認識しているかということだと思います。私が編集長になってから名前を載せたケースはいくつかありますが、少年法の趣旨に真っ向から批判を加えているわけではありません(過去に実名で報じた少年犯罪…1999年光市母子殺害事件/2013年吉祥寺女性刺殺事件/2014年名古屋の女子大生による殺人事件/2015年川崎市中1男子生徒殺害事件 ※2009年から編集長に就任)。「少年の実名をさらしてしまうと更生の妨げになるのではないか」という趣旨はむろん理解できます。一方で、少年法に罰則規定がないということもある。だからといって、それをむやみに破っていいというわけではないことも分かっている。

ただ、「少年だから名前を書かない」ということだけをひたすら守るのは、メディアとしての思考停止ではないでしょうか。世の中、どんなことにでも「程度」というものがあるわけです。それから事件報道の基本は、「誰」が「何」をやったかということ。そこでの固有名詞はとても大事な要素です。法律の趣旨に鑑みて許容できる範囲であれば、それを認めるのもやぶさかではない。ただ、名前を載せるか否かを毎回考えないといけないんじゃないの? と私は問いたい。

従って、すべての少年事件で名前を載せようなんて、全く考えていません。繰り返しになりますが、通常は名前を報じることが更生の妨げになることもよく分かります。ただ、私たちが名前を載せた少年事件のケースは、非常に大きな影響を社会に与えた事件です。例えばこういうことではないでしょうか。私たちが名前を載せたことによって更生ができなくなるような、そんな程度の反省では「更生失敗」であるといえるような、そのぐらい深い反省を求められるような案件……、極めて重大な事件ばかりなのです。時折、少年法で規定されていた少年犯罪の範囲を超えているような事件が起きるわけです。世の中に与えた衝撃度、犯罪のありさま、本人の供述など、総合的に考えてみたとき、「名前を載せない」という判断に必ずしもならないケースもあるのではないかと思うわけです。そのケースに至ることが、時々、ごくごく稀にある。これが私のスタンスなのです。

メディアというものは、第四の権力としていろいろなものを批判するものですよね。それを私たちは私たちのやり方で少年法に疑義を呈しているわけです。その意味では、高市早苗総務相が「停波」発言をして、テレビ局が騒いでいるのと変わらないと思います。高市総務相にはみんな一斉に噛みつくのに、なぜ少年法という法律になると、全メディアが右へならえで、かたくなに「名前を報じてはいけない」の一辺倒になるのでしょうか。少年の更生が全てに優先するという理想主義なのか、あるいは、単に杓子定規に「法律に書いてあるからだめ」ということなのか。「少年は更生すべき」というのはもちろんです。でも、あまりにも杓子(しゃくし)定規にすぎませんか? われわれ『週刊新潮』は「本音のメディア」でありたい。だからこそ、私たちは名前を載せることがあり、その点でもちろんご批判も受けます。

ですので、重大な少年事件が起きた際、毎回丁寧に考えた上で、「載せない」という決断であれば、そこに問題はないと思います。しかし、毎度、同じ判子をつくように「載せない」と、考える前に判断するような風潮に疑問を抱いているわけです。だからこそ、私たちはその都度、呻吟(しんぎん)して載せるかどうかを判断しているつもりです。二十歳未満の犯人であると、機械的に実名を報じないというのは、やはりメディアの思考停止なのではないでしょうか。