あまりアニメを見たり洋画を吹き替えで見る機会がないという人であっても、大塚明夫という名前は聞いたことがあるのではないだろうか。もし名前にピンと来ることがなくても、声を聞けばほぼ間違いなく「知ってる!」となるはずである。代表作に『メタルギア』シリーズのソリッド・スネーク、『攻殻機動隊』のバトー、洋画ならスティーブン・セガールやデンゼル・ワシントン、ニコラス・ケイジの吹き替えなどがあるが、いずれも重厚な演技で視聴者の心に忘れられない印象を刻みつける。僕自身ほとんど声優に詳しくなく知識も乏しいのだが、それでも大塚明夫が偉大な声優であることは一度声を聞けば理解できる。

今回紹介する『声優魂』(大塚明夫/星海社新書/886円)はそんな唯一無二の声優、大塚明夫の執筆した本である。はじめに断っておくが、本書はアイドルなどがよく出版するファンサービスのための本ではない。本書はまず第一に声優志望者に非常にシビアな現実を突きつける叱咤の書であり、大塚明夫の壮絶な自伝でもあり、声優にかぎらず様々な職業でも参考にできる仕事論でもある。大塚明夫のファンはもちろん必読であるが、「声優なんて別に興味がない」という人にも読んでみることをすすめたい。声優とは程遠い仕事をしている人でも、彼の仕事論からきっと貴重な発見ができるはずだ。

声優だけはやめておけ

大塚明夫『声優魂』(星海社新書/886円)

本書を手に取った時に、まず目に入るのが帯に書かれた一言である。

「声優だけはやめておけ。」

本を目立たせるための単なる煽り文なのかと思いきや、決してそういうわけではない。現に本書の「はじめに」にも同じことが書かれている。

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本書で私が皆さんにお伝えしたいことはただ一つ。
声優だけはやめておけ。
嘘偽りなく、これだけです。
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さらに追い打ちを掛けるかのように、第一章の章題は『「声優になりたい」奴はバカである。』となっている。どうやら大塚明夫は単なる煽りではなく、本気で読者に「声優になんてなるな」と呼びかけているようだ。

自ら声優として一線で活躍し成功もしている大塚明夫が繰り返し「声優だけはやめておけ」と主張するのは、彼が声優という生き方について極めて冷静に客観的な分析をしているからにほかならない。実際、声優を取り巻く環境は非常に厳しい。本書の喩えを借りるなら、現在の声優業界は「三百脚の椅子を、常に一万人以上の人間が奪い合っている状態」であり、本当に声優専業で食えるのはほんの一握りにすぎない。

声優は自分で仕事を作り出すことができない

「ほんの一握りの人間以外はプロとして食うことはできない」という世界は別に声優の世界には限らないが、それに加えて声優が職業として成立しにくい理由に、「声優は自分で仕事を作り出すことができない」という特殊な問題もある。声優の仕事は「声をあてる」ことだから、そもそもの声をあてる対象が存在しなければ仕事はない。脚本家や小説家であれば自らの努力で作品を生み出すことが可能だが、声優にできるのは作品が生み出されるのを「待ち」、同業者との仕事の奪い合いに勝って仕事を「もらう」ことだけだ。自分の技術を磨くための努力はできても、作品を生み出すための努力はしようがない。

需要と供給の関係が著しく歪んでおり、新しく仕事を自分で作り出すこともできない。これはもはや「職業」といってよいかさえあやしい。実際、本書には「声優になる」とは職業の選択ではなく、生き方の選択である、と書かれている。まっとうな生産社会で生きていくことを諦め、もはや演じること以外に生きる道がないということになってはじめて声優という生き方の選択をする。果たして、これだけの覚悟を決めて声優を目指している人はいったいどれだけいるのだろうか。

自分の本当の欲求に正面から向き合うことが必要

声優志望者になぜ声優になりたいか聞くと、かなりの人が

「芝居が好きで、色んな役を演じたいからです」
「子どものときにアニメからもらった感動を自分も人に与えたいからです」

などと答えるらしい。

大塚明夫は、これを「真に受けることができない」と喝破する。声優志望者の多くは、多かれ少なかれ「ちやほやされたい」という欲求を隠し持っている。それを曲げてこのような「もっともらしいこと」を言ったとしても、本当に自分のなりたい姿になることはできない。むしろ、正面から「ちやほやされたい」という自分の欲求と向き合い、そのために何ができるかを真剣に検討すべきであると説いている。

これは別に声優に限った話ではないのではないだろうか。就職活動などを通じて誰もが自分が特定の職業につく「もっともらしい理由」をつくり上げるが、果たしてそれは本心なのだろうか。「もっともらしい理由」に縛られて、結局自分がなりたいようになれないことで悩んでいる例をよく見かける。他人に堂々と言うのがはばかられるような欲求であっても、真に望んでいることがあるならそこから目を背けるべきではないだろう。

こういったことの他に、本書には大塚明夫の演技に関する考え方などが書かれておりそれも非常に興味深いのだが、字数の関係ですべて紹介するわけにはいかない。少しでも気になる部分があるなら、ぜひ一読してみてほしい。声優という職業、あるいは大塚明夫という人そのものに対する見方がきっと変化するに違いない。


日野瑛太郎
ブロガー、ソフトウェアエンジニア。経営者と従業員の両方を経験したことで日本の労働の矛盾に気づき、「脱社畜ブログ」を開設。現在も日本人の働き方に関する意見を発信し続けている。著書に『脱社畜の働き方』(技術評論社)、『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』(東洋経済新報社)がある。