大阪の観光名所としてあまりにも有名な大阪城。しかし、その城郭や周辺には、実際に行った人や何らかの文献を読んだ人でもなければ意外と知らない「隠れ見物ポイント」が存在するのだ。

現在、城郭の多くは徳川時代のものだが、昭和6年に復興された天守閣は豊臣時代のものをモデルにしている大阪城

南側外堀の石垣にある目的不明の穴

大阪城の石垣に1カ所、ちょうど積み石1コ分が抜き取られたような穴がポッカリと空いているのを確認できる場所がある。穴は南側の外堀に面した石垣、ちょうど六番櫓(やぐら)が立っているところから西側の壁面に位置している。外堀越しに見ると距離があるので小さく見えるが、約90cm四方の大きさの穴で、大人でもかがめばなんとか入れそうである。

南側外堀の壁面石垣にある積石1コ分が抜き取られたような穴

穴は約90セcm四方の大きさで、2mほど奥のところで崩れてふさがっている

現在の石垣が積まれた時からあるものではなく、後世にわざわざ積み石1コ分を取り除いて空けたものだという。そして中は現在、2mほど入ったところで崩れて行き止まりになっているのだが、そこには木の柱らしきものが立っているとのことで、どうやら人工的に掘られた穴と考えて良さそうだ。

実はこの穴、明治以降に大阪城を占有していた旧陸軍が空けたものらしい。しかし、その理由や目的は分かっていない。穴は石垣の上から約15m下方、堀の水面から約8m上方に位置し、人が出入りするための穴とも考えにくく、謎は深まるばかりである。

水のない堀に残された奇妙な石組み

大阪城の内堀のうち、南側の桜門の周囲にあたる場所は堀になっているが、数m高く段差がついていて水が満たされておらず、「空堀(からほり)」と呼ばれている。

水が干上がっているのではなく、設計当初から水のない「空堀」

決して、単に水が干上がってこのようになっているわけではない。現在の空掘は寛永元年、徳川の大阪城再建時に掘られたものだが、当初から水のない空堀だったようで、また、豊臣時代の初代大阪城の内堀も「豊臣時代大坂城本丸図」によると、やはり南面のこの辺りは空堀となっているのだ。

一説には、「あえてこの部分だけ侵入しやすくしておくことで、敵を一カ所に集めさせるためだったのだろう」とも言われているが、「もともと地形上、高低差があり、自然の地形に従ったためであろう」との説が有力とされる。実は、大阪城の内堀の水は今も自然の湧き水を利用しており、このことからも昔からの自然の地形をあまり壊していないことがうかがえる。

この空堀には、ほかにも謎が残されている。水のある堀との境目近くに、空堀を横切るように奇妙な石組みが敷かれているのだ。高さ1.5m、幅2m程度の石組みで、両端はそれぞれ二の丸の石垣、本丸の石垣に食い込むように築かれている。そして、中は空洞になっており、かがめば大人ひとりがくぐれるぐらいのトンネル状になっている。

壁面から壁面まで空堀を横切って連なっている石組み

石組みは高さ1.5m、幅2mほどで中はトンネル状になっている

江戸期に作られた「金城見聞録」という書物の中に、「本丸から二の丸玉造口に通じる秘密の地下道があったらしい」との伝説が紹介されており、このトンネル状の石組みがそれに該当するのでは?という説がある。また、「石垣の中に染み込んだ水を抜く施設」、あるいは、「空堀の土砂が水堀に流入するのを防ぐ土留め」といった説もあるようだが、どれも確証はなく、いまだその意図は解明されていない。

太平洋戦争時の地下壕入口

また、空堀の桜門東側には、側面石垣と堀の底とが接する部分にこれまた人工的な穴が見つかっている。これについては何の穴かが判明しており、太平洋戦争中に中部軍管区司令部が築いた地下壕への入り口の跡らしい。

フェンスで閉じられているが、かろうじて入口らしき穴が確認できる

入り口は本丸側に1カ所と、二の丸側に2カ所あるようだが、現在比較的確認しやすいのは二の丸側の1カ所のみ。ただ、これも土や草に埋もれてほとんどふさがっている状態である。

中はすでに土砂で埋まってしまっているものと思われていたのだが、穴の奥には、高さ2m、全長60mにもおよぶ防空壕も残っていたことが確認されている。扉の跡や天井には電球のソケットなどもあったそうだ。戦時中、大阪城は旧陸軍の中枢部が置かれ空襲の標的となっていたため、それに備えて造られたのだろうと考えられている。これほどの大規模な防空壕は、大阪市内ではほかに残っていないらしく、貴重な戦時の遺構でもあるのだ。

真田幸村の抜け穴伝説

大阪城から少し場所は離れるが、現在の大阪城公園から南に1.5kmほど下ったところに宰相山公園があり、その公園内に「三光神社」という歴史ある神社が鎮座している。ここは大阪冬の陣の際に、豊臣方の真田幸村が陣を構えた真田丸があった場所。神社内には幸村が築いたとされる、大阪城下へと通じる地下の道「真田の抜け穴」跡が現在も残されている。

ただし、真田の抜け穴伝説は信ぴょう性に乏しく、むしろ徳川勢が戦略上つくったものだとする説もある。ちなみに、そんな史実とは言い切れないものでありながら、三光神社にある真田の抜け穴とされる跡には、「史跡・真田の抜け穴跡」という碑が建てられており、はっきり“史跡”と言ってしまっているところが面白い。

真田幸村は複数めぐらた抜け穴から神出鬼没に現れ、徳川軍を翻弄したという

現在の天守は昭和6年(1931)になってから再建され、内部は近代的な博物館となっている大阪城だが、城郭やその周辺にはまだまだ豊臣、徳川、そして陸軍、それぞれの時代の遺構が残っており、今回紹介したようなマニアックな見どころもあるのである。