漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「図書館」である。

しかし、田舎と都会の人間では「図書館」のイメージが違うような気がする。

当方の図書館はもちろん公民館と併設されているやつで、席は20席程度、そこに「テスト勉強」と称してヘルメットをかぶった中学生がチャリで集合し、そこに唯一ある漫画「日本の歴史」とかを読みふけりだす場所だ。

もしかしたら都会の図書館も規模がデカいだけで行われていることは大体同じかもしれないが、漫画のラインナップはもっと豊富だろう。少なくとも火の鳥ぐらい置いてあるはずだ。

このようにどこへ行っても「小中学生の図書館から漫画を探し出す能力は異常」であり、そこが手塚治虫で癖に目覚める奴と、はだしのゲンでトラウマを作る奴の分岐点であった。

しかし、本というのはハードカバーであれば千円をくだらない。それを合法かつタダで借りて読めるというのは画期的であり、読書をやる人間なら利用しないという手はない。

しかし何度も言っているが、私は青っ洟と見せかけて鼻から脳しょうを垂らしているタイプの人間である。

子どものころは図書館で本を借りてもなかなか返しに行かず、督促状を受け取ったことは一度や二度ではない。

つまり、そんな私が今消費者金融などから督促をされていない、ということはもっと評価されていい、ということだ。

さらに「触るものみな腐らせた」でお馴染みの腐り手の持ち主でもあるので、借りたものを汚してしまう恐れもある。

私が人から物を借りるというのは相手にとって非常にリスキーかつ、己の社会的信用をさらに下げる恐れがある。

よって今では、他人に借りるのは金だけにしようと思っているし、それも銀行振り込みか電子マネーのみ受付にする予定だ。

私に金を貸しても「その金は受け取れねえ」としか言えないような泥付きの万札を返してくることはないので安心して貸してほしい。

若人どころか中年にさえ通じるかわからないことを言ってしまったが、要約すると「田中邦衛氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます」ということだ。

今でこそ図書館に足を運ぶことは滅多にないが、インターネットという悪い意味での永久機関が我が家に来る前までは良く図書館や図書室を利用していた。

特に「図書室」に対しては「あの時助けていただいた陰キャです!」と言って、恩返しに行くぐらいしなければいけないと思っているが、おそらく扉を開けてもらえない。

クラスに友達がいない学生にとって「図書室」というのは「避難施設」である。

教室に一人でいるのは別に苦痛ではない。

むしろ教室で一人、ニーチェとか読んで、周りの凡人にさらなる差をつけられたいところだ。

ただ「あいついつも一人だな」という視線、そしてそれを気にしつつも、決して己のグループには入れようとはしない優等生グループにより、教師に報告されてしまうのが嫌なのだ。

私は中学生の時そのコンボを決められ、教師に抜き打ち家庭訪問をされるという屈辱を味わった。

本人は教室で一人、空(くう)を見つめていたくても、小中学生時代は周りがそれを許さなかったりする。

その点図書室であれば、一人で本を読んでいてもそこまで不自然ではない。

場合によっては「あの子はいつも図書室に一人でいる」と、ともはや俺のことが好きとしか思えない告げ口をする奴も出てくるが、教室よりはマシである。

ちなみにもっと上級者は「ピロティ」なる場所で時を過ごすらしいが、私は若輩ゆえに図書室をキャンプ地にしていた。

また、単純に金と娯楽がなかったため、図書館で本を読むしかなかったというのもある。 よって小中学生の時はいろんなジャンルの本を読んでいた。

「若いころ本を読め」というのは、若いころにそれしかやることがなかった老の繰り言ではなく、事実だと思う。

年を取ると目が疲れやすく、活字を長時間読めなくなるというのもあるが、狭まるのは視野だけではなく「読める本の範囲」も狭まる気がするのだ。

子どものころはどんな本でも「フィクション」として楽しめるのだ。

大学生が主人公の本を読めば、何せ大学生活なんか経験したことがないので、それは「ファンタジー」と大差ないのである。

だが逆に、大人になってから高校生が主人公の作品を読むと、下手に自分も高校生活を経験しているために「なんかの古傷が開く」恐れが出てきてしまう。

つまり開く傷がない若い時の方が果敢にいろんな作品にトライできるのだ。

私も中学生の時に図書館にあった林真理子とか読んでいたが、今は熟考の末に「漫画日本の歴史」を選ぶと思う。

若人の皆さんは、ぜひ傷だらけの中年になる前に、いろんな作品に触れてほしい。