独創的なストリートマジックで一大ブームを巻き起こしたマジシャン、セロ。ワールドワイドに活躍する彼がこのほど、再び活動の場を日本に移すという報せが飛び込んできた。 2014年を境に日本のテレビから距離を置いたセロだが、今年の5月には“マジック界のアカデミー賞”とも呼ばれる「Most Original Magician of the Decade」を受賞。名実ともに世界のトップマジシャンに名を連ね、その動向にも世界的な注目が集まっている。

その彼がこのタイミングで再び日本に軸足を置こうとするのはなぜか。そして今後、我々にどんな魔術を見せてくれるのか、渦中の本人に話を聞いた。

■セロの少年時代は「マジックだけが心の拠り所だった」

「この希望のない時代に、マジックで子どもたちに希望や感動を与えたいんです」

開口一番そう話したセロ。確かに未曾有のコロナ禍に突入して以降、ウクライナをめぐる戦争や世界的な物価高など、不穏なニュースが世界中で続いている。セロ自身、コロナ禍でスケジュールのキャンセルが相次ぎ、不安にも苛まれたが、この機に「自分にとってマジックとは何か」という問いと改めて向き合い、原点に回帰したようだ。

セロのマジックの原体験は6歳まで遡る。

「知り合い夫婦の新婚旅行に同行して、ラスベガスでマジックショーを見る機会があったんです。未成年は入れなかったのですが、夫婦の間に隠れて見ることができました。最初はトップレスのダンサーが出てきてビックリしたのを覚えています。

そのあとにタキシード姿の不思議な男性が出てきたのですが、彼が白い手袋を脱いで空中に投げると、その手袋が鳩に変わったんです。さらに、男性の手元に戻った鳩に布を被せると、今度は鳩が女性に変化しました。続いて女性を空中に浮かせて布を掛けたら、また鳩に変わったんです。本当の魔法だと思って、とても驚きました。トップレスのダンサーのことなんてすっかり忘れてしまったくらいです(笑)」

以来、セロはマジックにのめりこんだ。プロマジシャンのレッスンを受け、マジックのビデオテープも擦り切れるほど再生し、早くからマジックの開発にも明け暮れた。

マジックは、複雑な生い立ちを持つ少年の“心の拠り所”にもなったようだ。セロはロサンゼルス出身のアメリカ人だが、父は沖縄生まれの日本人で、母はモロッコ系フランス人。幼少期は自分のアイデンティティに思い悩んだし、両親は物心がつく前に離婚していたという。

「子どもの頃は不良でしたね(笑)。アメリカ人でも、日本人でも、フランス人でもない僕は、自分の居場所が見つけられませんでした。親は離婚していて、家庭も壊れていましたしね。そんな中で、マジックだけが僕の唯一愛したホビーだったんです」

■家も金もない貧困生活 ー それでも巻き起こした“セロ旋風”

16歳の頃、父が家を差し押さえられてしまった影響で、セロはアメリカの学校を退学し、祖母の住む沖縄で暮らすことになった。しかし、多感な時期を過ごす少年にとって、見知らぬ田舎での暮らしは刺激に欠けていたようだ。

「日本に着いてからは沖縄に行かず、そのまま東京の友だちの家に行きました。結局、そこで3年くらい居候をすることになります。1,300ドルを持って来たのですが、一週間も経たずになくなりました。それでもとにかく稼がないといけなかったので、六本木や舞伎町のちょっと怪しいお店に行って、『マジックを無料で見せるから、チップは僕にください』って交渉して。チップは1,000円、2,000円をもらえることもあれば、たまに1万円から3万円くらいもらえることもありました。でも、同居人も僕も貧乏だったので、ひとつの弁当をふたりで分け合うような日が続きました」

セロいわく、かつての日本人の認識は「マジック=大道芸」。アメリカと違い、マジックを披露する舞台も整っていなければ、マジシャンへの扱いも劣悪だったそうだ。店裏の階段を楽屋代わりにし、泣きながらステージとも呼べないようなステージに臨む日々が続いたという。

しかし、幼少期から研ぎ続けてきたセロのマジックの技術は紛れもなく本物だった。やがて実業家の目に止まり、千葉にあるホテルの専属マジシャンとして雇われ、結婚式やディナーショーでマジックを披露。同時に国内外のマジックコンペにも積極的にチャレンジし、数多のトロフィーを手中に収めた。

テレ東やフジテレビの特番を通して日本に“セロ旋風”が巻き起こったのは、ちょうどセロが日本に見切りをつけ、海外に軸足を移そうと考えていた矢先だったそうだ。セロがギリギリ日本に留まっていたことで、日本は本物のマジックを目撃する機会を失わずに済んだのだと言える。

■マジックで人の心を動かすようなメッセージを伝えたい

フジテレビの特番「マジック革命!セロ!!」などでセロの名前は一気に広まった。それと同時に、マジックもついに日本で市民権を得たかのように見えたが、ブームを嗅ぎつけた各テレビ局が次々にマジック番組に手を出したことで次々にマジックが消費され、次第に飽和状態へと陥っていく。

その後、マジック番組の多くが“マジックの種明かし”や“マジックの種を見破るクイズ番組”に形を変え、セロが確立した正統派のマジックショーは地上波で鳴りを潜めるようになった。

「僕のマジックの原点は、6歳のときに見た“本物の魔術”にあります。お客さんに『マジックの種を見破ってやろう』と構えさせるのではなく、お客さんの中に夢と感動を生み出すような人間になりたいと思っているんです。僕は手品師ではなく、マジシャンだから」

セロは日本のメディアから一度“休憩”しようと決意した。2014年頃の話である。

すでにシンガポールや台湾などでも活躍し、アジア的なスターの地位を確立していたセロだったが、「自分自身が生まれ変わるためにも、しばらくは休みを利用して人生を楽しもうと思いました」と当時を振り返る。

「マジックというものは、机に向かって生み出そうとしてもダメなんです。生きる、楽しむことが新しいマジックを作るインスピレーションになるんですよ。日本のテレビに出なくなった後は、アートを見たり、世界中を回ったり、友だちと会ったり、本当にいろんなことをしました」

しかし、セロも40代後半にさしかかったことで、「そろそろマジックのレガシーを残していきたい」と心境にも変化が生まれ始めたという。

「そこにパンデミックが直撃し、今こそエンターテイメントが必要されていると感じました。やるからには、マジックでただお客さんを喜ばせるだけではなく、マジックに意味を持たせたい。マジックを通して子どもたちに夢を見せたいし、人の心を動かすようなメッセージを伝えたい。6歳の僕がマジックで感動したように。実際、今の僕のマジックは強いメッセージ性で溢れています」

最後に、セロは日本に戻ってきた理由と今後の活動について、次のように語った。

「僕は、日本のおかげで世界に渡ることができたので、日本に戻ってこられたことが何よりも嬉しいんです。日本の皆さんと一緒に、また僕のマジックで温かい時間を作っていけたら幸せです。今後はデジタルテクノロジーを含めた新しいカタチのコンテンツを世に出していく予定なので、どうか楽しみにしていてください」