(C)創通・サンライズ

――物語というものは、模型作りにどのように活きてくるのでしょう?

『哀・戦士』(劇場版『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』)の時に、大河原さん(大河原邦男氏)がトリコロールじゃないガンダムをポスターで描かれたのを見て、「あ、こんなことやっていいんだ」って。原作にないマーキングやディテールのラインが入っている。僕たちは「リアルタイプ」って呼んでいますが、このガンダムを見た時、オフィシャルから免罪符をもらったように感じたのです。当時は今のガンプラほど再現性が高くはなかったので、アニメで見た印象に近づけるということが唯一のガンプラとの向き合い方だと思ってたわけです。でも、それだけじゃない、という事を気付かせてもらいました。

モビルスーツが戦闘兵器として実在したとすれば、使い込めば汚れるし、戦えば壊れる。乗っている人の力量で戦果は変わってくるでしょう。そういうものを再現していこうと。そうなると、物語が重要になるわけです。自分が作っているガンダムは、どのシーンのガンダムなのかって。"ガンダムが自分のテリトリーにやってきた"という次の意識に繋がっていきましたね。

――そうして川口さんが、まだガンプラが発売される前にモビルスーツを立体化していくわけですが、最初に制作したモビルスーツの模型はどのようなものでしたか?

ボードゲームのコマとして、ほんの小さな5センチくらいのミニチュアを作ったのが最初です。都内の模型店のサークルに入っていましたが、そこでは「ガンダム、面白いね」と評判でした。模型だけでなく、立体物を作るのが好きな人の集まりで、雑誌に載せるものを作るプロもいれば、全くのアマチュアもいる。彼らと情報交換しながらやっていましたね。

そのうち、ボードゲームでガンダムの世界を再現してみようということになって、手作りにしたんです。もちろんゲームのルールも手作り。ストーリーはみんな知ってるので、やりやすかったですね。盤上で動かすミニチュアのガンダムやザクなんかを作ったのが最初です。

――それを経て『ホビージャパン』掲載の模型に繋がっていくのですね。

『ホビージャパン』さんが「SFプラモ特集」をやる時に、メインは『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』でしたが、『ガンダム』が盛り上がっているタイミングでもあったので、特集の中でガンダムを扱いたいと声をかけてくれました。5センチのミニチュアでは記事にならないので、僕を含めて3人で100分の1くらいの大きさで作りましょうと。

プラモデルなら箱に入っている部品を組み立てますが、当然まだガンプラは発売されていないため、フルスクラッチという作り方をします。ラフなものですが図面を書いて、プラスチックの板とか、丸い棒や四角い棒を切ったり、貼り合わせたりしながらパーツを作っていく。粘土細工とぺーパークラフトをプラスチックでやっているようなもので、むしろ彫刻に近いかもしれませんね。ボードゲームもそうですが、世の中にないものを自分たちで作ることには、まったく抵抗はありませんでした。むしろ楽しかった。欲しいものは自分たちでどんどん作っていきましたね。

――「ガンプラ」発売後、そしてバンダイの入社前まで「ガンプラ」にはどのように関わっていましたか?

大学4年間は『ホビージャパン』さん、『コミックボンボン』さんで実際にプラモデルを使って作品を作る、それに関する原稿を書く、ということをやっていました。『めぐりあい宇宙』(『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』)の頃、『ガンダム』のプラモデルをバンダイが出し尽くした状態で、次のステップとしてどうするかいろいろ試行錯誤していたようです。その頃、大河原さんが「モビルスーツバリエーション」(MSV)の絵を描かれていたんです。最初は湿地帯用迷彩のザクと、ザクキャノン、デザートザクとか。元になったのは『ガンダムセンチュリー』というムック本でしたが、テレビでは描かれないモビルスーツや、モビルスーツ開発の経緯、変遷、サブタイプの種類などがいくつも載っていた。先ほどのお話にも繋がりますが、テレビにでていないものでもOKなんだと。

それをバンダイが商品化することになった時、模型誌さんとタイアップというか、自分たちが改造して作品を作ったものを、バンダイの人も見ていた訳です。MSVでMSがリニューアルされる際のアドバイスとして、僕も所属していた「ストリームベース」というユニットにオファーが来る訳です。そこから商品に関わるようになり、年に2回、静岡と東京のホビーショーで発売されていない商品の試作を作ったり、雑誌で作品を発表していましたね。

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――「ガンプラ」が社会現象と言われるまでのブームをどうご覧になっていましたか?

最初はごく一部のファンが熱くなっていましたが、映画3部作のあたりでテレビ版が何度も再放送され、テレビ放送終了1年後くらいで周囲が騒ぎ出します。ちょうど僕らが『ホビージャパン』さんでやらせてもらうタイミングです。その時は、大人向けの模型専門誌だけでなく、小学生向けにも『コミックボンボン』さんで、ガンプラってすごいよというプロモーションをかけていました。幅広い年齢層を取り込んで、商品もかなり売れていたはず。「モビルスーツ買ったことないんだよ……ムサイしか買ったことない」なんて声がいくつも聞こえてきて。1981年頃は特にそういう状況でした。

――まさにブームの着火点からご覧になっていると思いますが、印象的なエピソードは?

僕の実体験というわけではないんですが、模型誌で作例を作る場合、バンダイ静岡工場からテストショットや成型品がきて、模型誌さんからの発注と併せて受取り制作に入ります。今なら宅急便などで送られますが、当時はデザイン担当の方が『ホビージャパン』編集部に袋に入れて持ってくるんです。そこまでの移動中に電車の中で度々子供たちが覗き込んできたと聞いています(笑)。中学生くらいの子が周りで「あれなんだろう?」「まだ出てないんじゃないか!」と話していたことを、担当は自慢げに話していましたね。

今なら守秘的な部分はしっかりやりますが、当時はネットもなかったのでクチコミもたかが知れていますし、静岡の工場では近所の子供たちが来たり。その中に岸山という現在ガンプラなどの開発をやってるスタッフの幼少期もいた(笑) そういうおおらかな時代でしたね。……続きを読む