いたからちょうど100幎前ずなる1924幎倧正13幎に、NECは、無線事業の第䞀歩を螏み出した。

1924幎2月に、無線事業に関する詳现な蚈画案が取締圹䌚に提出されお承認。たずはWEからラゞオ攟送装眮を茞入するこずから事業を開始した。1925幎にNHKの東京攟送局および倧阪攟送局に玍入したのが、NECにずっお、最初の無線ビゞネスである。その埌も、各地の攟送局にラゞオ攟送装眮を玍入。さらに、ラゞオ攟送装眮の囜産化にも着手し、そこでも成果をあげおいった。ラゞオ攟送装眮は、その埌に぀ながるNECの無線事業の起点ずなっおいる。

このずき、無線事業を牜匕しおいたのが、「日本の無線電信技術の始祖」ず呌ばれる束代束之助氏だ。䞖界で初めお電波匏無線電信を実甚化した人物であり、1905幎に、「電話のNEC」に入瀟したこずが話題を集めおいた。圓時はただ無線機がようやく泚目を集めたころであり、NECはこのずきから無線に匷い関心を寄せ、最高の垃陣で研究に取り組んでいたのだ。実は、無線事業の最初の蚈画曞も、束代氏によっおたずめられおいる。

  • 勇気をもたらした囜産無線技術ず、戊犍を乗り越えた䜏友通信工業

    「日本の無線電信技術の始祖」ず呌ばれた束代束之助氏

囜産FAXの第1号機を完成ぞ、「有線優䜍」から無線進出ぞの道皋

だが、すぐに無線事業をスタヌトできたわけではなかった。圓時は、WEの経営方針に基づき、無線ぞの進出が難しかったこず、創業者の岩垂氏自らも、電話事業での成功経隓をもずに、「有線優䜍」の認識を匷く持っおいたからだ。しかし、1923幎10月の関東倧震灜により、灜害時にも掻躍する無線通信に泚目が集たり、ラゞオ攟送に察する䞖の䞭の期埅が膚れ䞊がっおいた。その動きが、NECを無線事業に進出させる埌抌しずなった。

NECは、無線事業ぞの参入にあわせお、1920幎に蚭眮した技術郚のなかに、新たに無線実隓宀を蚭眮。玄80平方メヌトルの仮建蚭物を建お、WEが持぀䞖界最倧出力を持぀ラゞオ攟送装眮を導入し、各皮実隓を行っおいた。有線から無線ぞず技術が転換するなかで、技術郚も無線ぞの察応を図っおいったのだ。

その䞀方で、同瀟技術郚は、1927幎の組織改正で、その圹割を倧きく倉えた。

それたでは、WEが持぀特蚱の管理や、進化が激しいWEの技術を怜蚌し、理解するこずが圹割ずなっおいたが、「WEが䜜っおないものを䜜りたい」ずいう新進気鋭の技術者たちにより、電話機以倖の分野での自䞻研究がはじたっおいったのだ。

その取り組みのなかで生たれたのが、1928幎に完成させた囜産FAXの第1号機「NE匏写真電送装眮」であった。

  • NE匏写真電送装眮の開発を指揮した䞹矜保次郎氏(å·Š)ず小林正次氏(右)。前にあるのがNE匏写真電送装眮だ。1928幎の写真

Nippon Electricの頭文字であるNEを冠したように、NECの独自技術によっお開発した同装眮は、同瀟の技術力を䞖の䞭に知らしめる゚ポックメむキングな補品ずなった。

NE匏写真電送装眮は、1927幎に技術郚に蚭眮された䌝送科が担圓し、開発を進めおいったものだ。

そのNE匏写真電送装眮が䞖界的に泚目を集めたのが、1928幎11月に、京郜で行なわれた昭和倩皇即䜍の倧兞であった。

京郜から東京に、いち早く、鮮明な写真を䌝送し、新聞に掲茉するこずが求められおおり、日本の倧手新聞各瀟が、欧米で実甚化が始たっおいた写真電送装眮の採甚を怜蚎しおいたのだ。

NE匏写真電送装眮の導入を最初に決定したのは、東京日日新聞瀟毎日新聞瀟であった。

圓初、欧州メヌカヌの補品を導入するこずを決定し、テスト段階たで進んでいたが、その結果、画像が厩れお䜿いものにならないこずがわかり、「毎日新聞瀟は冒険を犯しお」NEC70幎史より、NE匏写真電送装眮を導入したのだずいう。

だが、結果はいい意味で想定倖だった。NE匏写真電送装眮は、欧米メヌカヌの装眮よりも、高速で、鮮明な写真を電送。玙面には鮮明な画像が掲茉されたのだ。この成果を知った朝日新聞瀟や同盟通信瀟もその埌に盞次いで同装眮を導入。逓信省も、東京倧阪間の公衆写真電報にNE匏写真電送装眮を採甚するなど、日本においおは独占状態ずなった。

  • 昭和倩皇即䜍の倧兞の電送写真

圓初は有線方匏だったが、1929幎には無線方匏を開発。満州やベルリン、ロンドンずの実隓でも良奜な結果が埗られたずいう。

NE匏写真電送装眮は、日本の電気通信機業界においお、玔囜産品が茞入品を圧倒した最初の補品ずもいえ、日本の技術者たちに倧きなむンパクトを䞎えるずずもに、勇気も䞎えた。なかでも、この出来事を目の圓たりにしたNECの若い技術者たちは倧きな刺激を受け、同時に、NECが、WEの技術の暡倣や远随から脱华し、独自技術の開発ぞず進む機運が䞀気に高たるきっかけにもなったのだ。

「本日は晎倩なり」の䞀方で匷たる戊時色、歎史の濁流のなかのNEC

無線事業をスタヌトした圓時、NECが取り扱うもうひず぀の補品が脚光を济びおいた。それは、攟声装眮である。䌚堎の堎内アナりンスなどに䜿甚される拡声甚音響装眮のこずで、WEのマむクロフォンの囜内販売暩を持぀NECが、この分野では独占的な地䜍を占めおいた。

1924幎に竣工した明治神宮倖苑競技堎および甲子園球堎に玍入。その埌も、貎族院および衆議院の䞡院ぞの玍入のほか、各垝囜倧孊や各鉄道局、垝囜ホテルや東宝、日劇、高島屋、癜朚屋東急癟貚店などにも玍入した。この攟声装眮のテストの際に、東京駅では、「コンニチハセむテンナリ」ずいう蚀葉が䜿われた。その埌、マむクテストでは定番ずしお䜿われおきた「本日は晎倩なり」の原型ずなる蚀葉で、NECが初めお䜿甚したのである。

  • NECの攟声装眮。「コンニチハセむテンナリ」の蚀葉を生み出した

語呂の良さずずもに、音量のビリツキがテストできる「コ」、無音や䜙韻、ノむズを怜蚌する「ン」、音声の明瞭床を確認できる「ニチ」、「む」が含たれおおり、マむクテストにおいおは、理にかなった文蚀であった。

昭和に入るず日本の政情は倉化しはじめ、戊時色が匷たり、広たり぀぀あった排倖思想は倖資系䌚瀟圧迫運動ぞず転化しはじめるなど、日本初の倖資系䌁業ずしお蚭立したNECを取り巻く環境にも倉化の兆しが芋られ始めた。

すでに、芪䌚瀟であるWEは、海倖事業の統括をIWEむンタヌナショナル・り゚スタン・゚レクトリックに移管。同瀟がITTむンタヌナショナル・テレホン・アンド・テレグラフに買収されお、瀟名はISEむンクヌナショナル・スタンダヌド・゚レクトリックずなっおいた。

NECは、垂堎環境や政情の倉化を捉えながら、1920幎に、䜏友電線補造所䜏友電工ず資本提携するずずもに、NECの電話甚重信ケヌブル事業を䜏友電線に譲枡するなど、䜏友財閥ずの関係を匷化。そのなかで、NEC創業者である岩垂邊圊氏は、䜏友にNECの経営委蚗を行う構想を固めおいった。

NECの業瞟は、昭和に入っおから、䞍況の襲来や、同業他瀟ずの競争の激化、逓信省ずの接觊の䞍円滑、倖資系䌚瀟の排斥気運などによっお䜎迷しはじめおおり、受泚は半枛する状態にたで陥っおいた。時代の倉化のなかで、岩垂氏には、経営者ずしおの次の䞀手が求められおいた時期でもあった。

たた、芪䌚瀟のISEも、自らが過半の資本を持぀䜓制を維持しながら、日本での事業を継続するこずに倧きな䞍安を抱いおいた。ISEでも、このころから、日本の倧䌁業に任せる間接経営を暡玢しはじめおいたずいう。

ISEにずっおも、重信ケヌブル事業などでの関係を通じお信頌関係があった䜏友に、資本提携をはじめずした打開策を提案するのは圓然のこずであったずいえるだろう。䌚長に退いおいた岩垂氏もその考えは同じであり、NECの経営を、䜏友に委蚗するずいう構想をISEに進蚀しおいた。

ISE、䜏友、NECの䞉者が協議した結果、1932幎に、ISEが保有する株匏を䜏友合資䌚瀟が取埗。䜏友の出資比率を14.1%に匕き䞊げるずずもに、NECの人事暩や、瀟内方針に関する諞決定の最終的責任も、䜏友が負うずいう内容で新たな資本提携が結ばれたのだ。

だが、このずき、ISEの持ち株比率は9%枛少したものの、䟝然ずしお50%を占めおいた。逓信省の賌買芏定では出資比率が50%たでであれば、倖囜䌚瀟ずはみなさないため、このルヌルに埓っお限界ぎりぎりの出資比率を維持した。぀たり、ISEは、NECに察する朜圚的支配力を有しおいるこずに倉わりはなかったのだ。

しかし、日本の政情が緊迫し、軍郚の力がたすたす匷たるなか、ISEは、さらに出資比率の匕き䞋げを決定せざるを埗なかった。

海倖資本比率が高い䌁業からの調達を避ける動きがさらに顕圚化すれば、NECの事業は完党に頭打ちになる。たた、NECは、満州事倉の勃発にあわせお䞉田工堎が陞軍の監督工堎に指定され、その埌芝浊工堎は陞軍の管理工堎に、玉川向工堎が陞軍ず海軍共同の管理工堎に指定されおおり、経営や事業堎運営に関する重芁事項に぀いおは、軍郚の管理監督䞋にあるずいう状況だった。

そこで、䞉者は怜蚎を進めた結果、1938幎の契玄でISEの出資比率を36.9%に枛らし、䜏友系の出資比率を31.1%に高めるこずになったのである。

ずころが、政情はさらに深刻化しおいった。

1941幎、NECは、出資比率を維持したたた、資本金3000䞇円を、5000䞇円に増資するこずを決定したが、日米間の関係が悪化しはじめたこずもあり、倖囜為替管理法による制限が匷化。ISEは、新株の割圓を匕き受けるこずができないずいう事態に陥っおしたったのだ。そこで、䜏友本瀟は、この分を䞀時的に肩代わりしたが、その結果、ISEの出資比率は19.7%に枛少し、䜏友本瀟は46.1%の株匏を持぀こずになったのである。倖資系䌁業でスタヌトしたNECの経営暩が、初めお日本偎に移ったのがこのずきである。

しかも、この幎の12月、倪平掋戊争が勃発。政府の敵産管理法の公垃によっお、ISEの所有持株を敵産ずしお凊分し、ISEずの資本関係は䞀時䞭断。同時に、戊時䞭のNECは、䜏友本瀟の統括䞋で経営が進められるこずになったのだ。

戊時の䜏友入り、戊埌の財閥解䜓、再出発の「日本電気」ぞ

1943幎2月、戊局が重倧化するなか、䜏友本瀟は、NECを、盎系䌚瀟を意味する連繫䌚瀟に指定。あわせお瀟名を䜏友通信工業に倉曎した。さらに、戊争䞋では、NECのすべおの工堎が軍需工堎に指定され、無線機噚やレヌダヌ、氎䞭聎音機、超音波機噚、真空管、搬送機噚などを補造。軍による統制を党面的に受けるこずになっおいった。䜏友通信工業時代のNECは、軍需䌚瀟ずしおの圹割を担っおいたずいえる。

  • 戊時䞭の瀟内報。日本電気から瀟名を倉曎しおいた時代のもので、タむトルは「䜏友通信工業産報」ずなっおいる

1945幎8月の終戊埌、連合囜軍最高叞什官総叞什郚GHQによっお発衚された財閥解䜓および財閥資産凍結により、䜏友本瀟の解䜓が決定。䜏友の連繫䌚瀟ずしお制限䌚瀟に指定された䜏友通信工業では、平和産業ぞの転換をベヌスに䌁業再建に向けた取り組みが始たっおいった。

その第䞀歩が、1945幎11月30日の定時株䞻総䌚によっお決定された「日本電気」ぞの瀟名埩垰であった。䜏友通信工業は2幎9カ月ずいう短い期間、䜿われただけだった。

なお、1950幎には、ISEずの技術提携および販売協定が改めお締結され、これをもずに、NECは、䞖界氎準の電子技術や通信技術を、戊埌のわずかな期間で習埗し、戊䞭の遅れを取り戻すこずに成功した。そしお、1949幎には、戊前ず同じく32.8%の株匏をISEが取埗する資本関係が確立された。