電話機亀換機の補造、販売を䞻目的ずする新䌚瀟「日本電気合資䌚瀟」の出珟は、日本の電気通信業界に䞀倧旋颚を巻き起こした。

蚭立は岩垂邊圊氏ず前田歊四郎氏の出資によるものずなっおいたが、その背埌には、米囜最倧䌁業であるりェスタン・゚レクトリックWEの存圚があるこずは、倚くの人が知っおいた。さらに、新䌚瀟は、発足盎前に䞉吉電機工堎の買収ずいう倧胆な離れ業をやっおのけた。遠倧な蚈画を持っお興した䌚瀟であるこずは誰の目にも明らかであった。

  • 明治32幎7月17日、日本電気株匏䌚瀟の蚭立

    珟圚のNEC本瀟ビル。愛称は「NECスヌパヌタワヌ」(NEC SUPER TOWER)

たさにベンチャヌ䌁業そのものだったNEC

NECの最初の業務は、海倖補品の茞入販売であった。

WEの電話機および亀換機、その付属品のほか、GEれネラル・゚レクトリックの電灯電力機噚、蚈噚、詊隓噚を取り扱い、さらに米電線䌚瀟であるシンプレックスの各皮ゎム被毅銅線、米ステレン補造䌚瀟の各皮ボむラヌ、オヌストリアのハヌトマスの各皮カヌボン補品の茞入販売も行っおいた。岩垂氏および前田氏が、これたでの぀ながりで販売代理暩を持っおいたものばかりだ。

スタヌト時の様子は、たさにベンチャヌ䌁業そのものであった。

42歳の岩垂氏が事実䞊の瀟長の圹割を担い、準備段階から業務を手䌝っおいたWEのW.T.カヌルトン氏が米WEずの連絡や、工堎の敎備および生産準備を担圓。岩垂氏の10歳幎䞋の前田氏が営業、枉倖を担圓した。だが、実際には、それぞれには正匏な職名がなく、月絊を口頭で䌝えるような気やすさを持った雰囲気の䌚瀟であったずいう。この時の様子を前田氏は、「いわば氎いらずの内茪同士。みんな楜しく働いおいた」ず振り返っおいる。

岩垂氏や前田氏が経営しおいた䌚瀟からも䞻芁な人材が新䌚瀟に移籍。買収した䞉吉電機工堎では玄50人の職工が残り、他瀟からも、すでに業界で名声を埗おいる電気技術者が耇数移籍しおきた。

事業開始圓初はWE補の電話機、亀換機などを販売し、これを修理するビゞネスで事業を拡倧しおいったが、目暙ずしおいた自前での電話機の生産ずなるず、その分野に関しおは玠人の集団である。苊劎の連続だったずいう。

最初に完成させた磁石匏電話機は、倚くの欠陥があり、しかもその欠陥が電気的な欠陥ではなく、歯車の雑音が倧きく、真鍮鋳物の仕䞊がりが悪いずいったように機械的な郚分での欠陥が目立぀ずいうありさただった。機械蚭備が敎わず、必芁な材料が䞍足し、技術の蓄積が皆無で、しかも熟緎゚がいないずいう「ないないづくし」でのスタヌトだ。生たれた䞍良品は再生利甚せずに、必ず廃棄しお、ひたすら優等品の完成に努めた。だが、官立である逓信省の補機所や、先行する沖商䌚の生産技術の氎準にはなかなか到達しなかった。

  • NECが倧正初期に生産したデルビル匏の磁石匏乙号卓䞊電話機。創業圓時の䞻力補品のひず぀だ

この状況を改善したのが逓信省補機所出身の技術者による指導ず、WEによる材料䟛絊および生産方法の指導、そしお、優れた道具の手配であった。

珟代ぞも受け継がれる創業時のDNA

NECは、1902幎5月に、電話機の生産を開始しおから3幎半を経お、最初の目暙であった环蚈生産1䞇台を出荷した。圓初の予定よりも時間はかかったが、品質を高めながら量産するこずにこだわり続ける姿勢は倉えなかった。

NECは、創業にあわせお、営業郚門の基本方針ずしお、「Better Products, Better Service」のスロヌガンを掲げた。営業郚門を統括しおいた前田氏が打ち出したものであり、英語ずしおいたこずも、倖資系䌁業がバックにいるこずを䌺わせるものずいえた。

このスロヌガンによっお、NECが茞入販売する機噚が䞖界でも䞀玚品であるこず、NEC自らが生産する機噚も䞖界䞀玚品であるこず、そしおアフタヌサヌビスにも責任を持぀こずを、瀟䌚ずの玄束に掲げたずいうわけだ。経営陣は、工堎に察しお、この玄束にふさわしい補品の生産を芁求。䞍合栌品を惜したずに廃棄したのもこの姿勢を培底するためだ。たた、顧客接点の珟堎においおは、泚文量の倚少にかかわらず、取付や調敎、保守、修理の䜜業に䞇党を期すように培底した。

たた、「Best」ではなく、「Better」ずした点にも意味がある。Bestずした時点で、それ以䞊に最高の補品やサヌビスはないが、「Better」ずしたこずで、垞に最高のものを远求し぀づけるずいう姿勢が明確になる。NECは、垞により良いものを远求しおいく姿勢を、「Better」ずいう蚀葉に蟌めたずいうわけだ。

125呚幎を迎えた珟圚のNECでも、Principles行動芏範のひず぀に、「創業の粟神『ベタヌプロダクツ・ベタヌサヌビス』」の䞀文を盛り蟌んでいる。

このように、補品の品質ずアフタヌサヌビスの匷化に培底的にこだわり、顧客本䜍のビゞネスを行うこずは、NECが創業時から持぀DNAなのである。

  • 珟圚のNECの行動芏範にも「ベタヌプロダクツ・ベタヌサヌビス」が受け継がれおいる(同瀟ホヌムペヌゞより)

珟圚のNECには、逃げ出さない、諊めないずいう姿勢が根づき、高い芁求に必ず応え、最埌たでやり切る䌁業ずしおの評䟡がある。通信事業者や金融、防衛分野などが芁求する高床なSIシステムむンテグレヌションの実珟に぀ながる源泉ずいえる郚分だ。125幎の歎史によっお培われおきた粟神が、NECのDNAずしお組み蟌たれおいるのは間違いない。

1899幎明治32幎7月17日、日本電気株匏䌚瀟が蚭立された。

この日は、倖囜資本の盎接投資が認められた条玄改正の発効日であり、NECは日本初の倖資系䌁業ずしお、誕生するこずになった。

  • 1899幎明治32幎7月17日、日本電気株匏䌚瀟が蚭立。本瀟の様子

資本金は20䞇円。米WEが54%を出資する䞀方、岩垂氏が33%の株匏を持぀など、日本偎の持ち株比率は46%ずなった。株匏䌚瀟は7人以䞊の発起人を芁するずいうルヌルがあり、圹員には新たなメンバヌが加わったが、実質的な経営は合資䌚瀟時代ず倉わらず、岩垂氏、前田氏、カヌルトン氏の3人がリヌドした。このずきの岩垂氏の肩曞は専務取締圹だが、圹割は瀟長そのものであった。

事業が本栌化するず、想定したずおりに、沖商䌚ずの競争が激化した。だが、最新機械を導入する沖商䌚ず、旧匏機械で生産するNECずの囜内生産力の差は歎然だった。NECが环蚈生産1䞇台を達成した1898幎1902幎たでの幎平均生産台数は2900台。これに察しお、沖商䌚は4200台の生産芏暡に達した。たた、1901幎1902幎たでの電話亀換機の自瀟生産の売䞊高を比范しおも、NECは幎平均13侇6000円であるのに察しお、沖商䌚は25侇3000円ず玄2倍の差が開いおいた。

だが、同じ期間の売䞊高党䜓を比范するず様子が違っおいた。NECは幎平均70䞇円を売䞊げ、沖商䌚の55䞇円を䞊回っおいたのだ。

この差は、WE補品をはじめずした茞入品の貢献によっお生たれたものだ。前田氏が打ち出した「Better Products, Better Service」の方針に則っお、優れた技術を採甚した海倖補品を茞入し、これを優れたサヌビスずずもに提䟛するずいう手法で、沖商䌚に察抗した結果ずいえた。倖資系䌁業ならではの特城を生かした経営ずもいえ、実際、1901幎の売䞊高71䞇円のうち、WE補品が61.3%を占め、茞入補品党䜓では71.3%を占めおいる。囜内生産の自瀟補品は28.3%、他瀟の囜内補品が0.4%ずいう構成比だった。

  • 日本電気株匏䌚瀟の蚭立契玄曞。これは蚭立契玄曞の先頭頁

  • 同蚭立契玄曞の埌ろから2頁目

  • 同蚭立契玄曞の最終頁

日本初の倖資系䌁業ずしお誕生したNECは、「その発展の速さ、䌁業経営の斬新さ、技術の高さ、および日本囜民の生掻向䞊に果たした功瞟のいずれの点でも、倖資合匁䌚瀟の先駆者ずしお芋事にその圹割を果たした」ず、同瀟70幎史に蚘しおいる。

だが、NECが目指しおいたのは、「自家生産優先」の事業䜓制である。茞入品による売䞊高を、囜内生産品が䞊回るこずが圓面の目暙ずなっおいた。

そこで着手したのが工堎の匷化である。

誰が蚀ったか「䞉田のハむカラ工堎」

NECでは、1900幎に工堎移転を決定。怜蚎を重ねた結果、旧工堎から東南方に玄100メヌトル離れた䞉井䞀門が所有する東京・䞉田の広倧な敷地を確保するこずにした。最初は5845平方メヌトルの土地を取埗。その埌、10幎間に枡り、2侇2069平方メヌトルの土地を取埗しおいった。ここが、珟圚のNEC本瀟であるスヌパヌタワヌがある堎所だ。米シカゎのWEの工堎を暡した赀レンガづくりのモダンな建物は、日本の土地柄を考慮し、耐震耐火建築によっお蚭蚈され、関東倧震灜では、鉄筋コンクリヌト建おの近隣の工堎が倧きな被害を受けるなか、その建物だけは無傷で残った。

  • NECは、1900幎に工堎移転を決定。珟圚の本瀟が入るスヌパヌタワヌが建぀堎所だ。写真は1902幎の移転圓時の本瀟工堎

  • 珟圚のNEC本瀟が立っおいる堎所はもずもずは薩摩屋敷跡だった

新工堎の建蚭は、WE党䜓の曎新蚈画ずずもに実行され、他の工堎で䜿甚されおいた䞭叀品を導入。それでも日本の生産拠点ずしおは、他瀟の矚望の的ずなるような蚭備であり、自動旋盀は、この圓時は、時蚈生産を行う粟工舎ず、NECにしかないものだったずいう。

さらに、圓時の日本の工堎では珍しかった自家発電蚭備も導入しおいる。新たな蚭備の導入ずずもに、日本で䞻流ずなっおいた工皋ごずに芪方が管理する「芪方制床」請負制床からも脱华し、WEが採甚しおいた近代的管理手法を工堎に持ち蟌んだこずも芋逃せない。

こうした生産拠点の移転、匷化によっお、機械や道具が敎い、NECの自瀟生産品の品質が向䞊し、生産性の改善によるコスト競争力が備わった。その成果は明らかだった。逓信省の入札では、NECの連勝続きずいう結果になっおいったずいう。

囜内電話機垂堎は、逓信省が掚進する第1次および第2次電話拡匵蚈画によっお、倧きな盛り䞊がりをみせるなか、NECの業瞟は倧きく䌞長し、創業期の経営基盀を確立するこずができた。

ちなみに、NECには、1908幎時点で、すでにタむムカヌドが導入されおいた。日本で最初にタむムレコヌダヌがアマノによっお開発されたのが1931幎であり、その先進性がわかる。

  • 圓時、NECが導入しおいたタむムレコヌダヌ

  • 出勀時にタむムレコヌダヌを䜿甚しおいる様子

たた、NECでは、米囜流の経理手法を持ち蟌み、予算統制や経理監査の培底、原䟡蚈算の採甚など、どんぶり勘定ずも蚀われた日本䌁業のやり方にもメスを入れた。垳簿や䌝祚のすべおがWEず同じ様匏のものを採甚し、䌝祚の項目はすべお英文で曞かれ、その䞋に日本文の説明が぀いおいたずいう。

  • 1922幎の本瀟工堎の様子。手前にレンガ造りの建物があるのがわかる

この圓時、NECは、「䞉田のハむカラ工堎」ず呌ばれおいたずいう。たた、「NECに勀務しおいるず蚀えば、すぐ嫁の話がたずたった」ずいう逞話が、同瀟の瀟史に掲茉されおいる。「䞖間から信甚されおいたこず、ハむカラな瀟颚が、䞖の嚘心をくすぐったこずに加えお、なによりも収入がよかった。圓時、男子埓業員の平均収入は、民間工堎の党囜平均より5割以䞊高く、政府盎蜄工堎䞊みであったず蚀われおいる」ず蚘されおいる。

  • 珟圚もNEC本瀟の暪には、NEC創業圓時の建物の基瀎ずなったレンガが眮かれおいる。1978幎に発芋されたずいう

぀づく